―実践編(準備号)― 英語に愛されないことは私たちの責任ではない:「英語に愛されないエンジニア」のための新行動論(4)(2/5 ページ)
「英会話は度胸」なんて言葉が氾濫しておりますが、英語が度胸でしか成立しないものであるなら、一体、私たちは青春時代の膨大な時間を費やして、何を学ばされてきたのでしょうか。
第1の要因 英語が日常で使われない「日本」という環境
そもそも「英語に愛されない」とは、どういう状態を意味するでしょうか。私は「英語を使わない環境下では、英語能力を発揮しない」ということだと思っています。もっと簡単に言うと、母国語(日本語)の環境下で、他の言語を使用できるようになる「奇妙な能力」を発揮しない、普通の状態にあるということです。
人間は、環境の変化に動的に適応する能力が備わっていると言われています。生存に関わる状況下に陥れば、別の能力を発揮することができます。「火事場のばか力」もその1つです。仮に、火星人にしか通じない「火星語」の環境下で生きていかねばならないなら、人間は火星語の取得も成し得る能力を発揮するものです。しかし、火星語の環境にいなければ、火星語を取得する必要はなく、逆にそのような無駄な能力は、生存を危うくします。
我々がエンジニアであり続ける理由は、「技術という手段」を持たないと「食っていけない」という環境下にあるからです。比して、生存に直接関係がなく、1日24時間どこにいても英語が聞こえてこないような環境下にあって「英語を使えるようになる能力」に長けているというのは ――もちろん、それはエンジニアにとって避けて通れない運命であるにしても ―― なんか、とても薄気味悪い、もとい、特殊な能力のような気がするのです。
これを裏付ける事実としては、仕事や観光を終えて我々が成田空港の入国審査の列に並んでいる時に、英語学習に対する意欲に燃えていることが挙げられます。これは生存の本能が維持されているためであり、健全な状態です。それにも関わらず、2〜3日で、うそのように英語への熱が冷めてしまうという事実もあります。生存に関係のない能力を減退させること。これまた、健全な状態だと言えるのです。
皆さん、今さらですが、もう一度よく考えてみませんか。「英語が使われない場所にいて、英語が使えないこと」って、そんなに変なことでしょうか。
第2の要因 日本国内において英語が必要な人間の比率が小さいこと
日本において英語を使う機会は絶無に近く(勉強やドキュメントは除く)、本連載の第3回にご説明した通り、海外に渡航し英語を必死で使わなければならない人口は、年間で就労人口全体のわずか「4%」程度の人口にすぎません(図1)。リピータを考えると、2%程度かもしれません。少なくとも現状のデータで見る限り、我が国は、100人に2〜4人程度しか、英語コミュニケーションを必要としている人がいません。このような状況下で、日本人の各個人が、その能力開発のモチベーションを発生させるのは無理、というか、無謀です。
私は、日本中に乱立している英会話学校が、どんなビジョンを持って生徒を集めているのか調べてみました。この連載を始めてから、私は英会話学校のパンフレットを集め、YouTubeで昔のテレビCMを見まくり、それぞれの英会話学校の設立趣意を読み取ろうとしました。しかし、全然分からなかったのです。書いていなかったからです。「英語が必要だ」という事実はあります。それはよく知っています。しかし、「日本国民の全て」に英語が必要かというと、それは、かなりウソくさい。それはデータが示す事実から乖離(かいり)しています。
そもそも、勉強というものは、「それがいつ役に立つか分からない」という状況下において、劇的につまらないものです。誰だって一度は、「微分や積分が一体何の役に立つというのか」とか、「リトマス試験紙が何色になろうが知ったことか」と、数学や理科の教科書を放り出した経験はあると思います。そんな中、「英語」というのは、比較的意義を見い出しやすい教科ではあるのですが、使う機会が見えないのであれば、これ以上ない「無駄な勉強」にまで落ちます。
「将来、絶対に必要になるよ」とおっしゃっていた中学、高校時代の先生の言葉と、私が調べた「4%」の数値の間で、私は今、混乱しているのです。
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