リカレント教育【前編】 三角関数不要論と個性の壊し方:世界を「数字」で回してみよう(59) 働き方改革(18)(5/8 ページ)
今回から前後編の2回に分けて、働き方改革の「教育」、具体的には「リカレント教育」を取り上げます。度々浮上する“三角関数不要論”や、学校教育の歴史を振り返ると、現代の学校教育の“意図”が見えてきます。そしてそれは、リカレント教育に対する大いなる違和感へとつながっていくのです。
「個性」という言葉の本当の意味
フーコーが唱える通り、学校教育は「個性破壊システム」として、実社会は「個性排除システム」として機能しています。
しかし、私たちは、物心がついたころから「個性が大切だ」と言われ続け、その言葉を文字通り、真面目に受けとって、自分の個性に従って生きている人たちが、派手に「壊され」て「取り除かれ」るのを、山ほど見てきました。
しかし、「個性が大切だ」と思っている人々は、うそ偽りなく、本気でその通りに思っているようですし、実際、私たちも「個性は大切だ」とは思っています ―― これといった根拠もなく。
これは奇妙なことです。
私が、半世紀にわたって観測した範囲内では、「突出した個性」のおかげで「幸せ」になったと思える人間は、一人もいません。むしろ「突出した個性」で闘っている人々は、体中を血まみれにしながら、勝算のない闘いを続けている様にすら見えます。
私は、この問題についてずっと考え続けてきたのですが、最近、ようやく分かったような気がしますので、この場を借りて、私の考えを発表したいと思います。
ポイントは、「個性」本来の意味と、「我が国(日本国)で使用されている個性」の意味が、全く違うという点にあります。
異質なモノ(人間)を排除して、組織(国や会社や学校)の存続を担保する ―― これは「免疫システム」です。社会を免疫システムとして把握すれば、「突出した個性」は、真っ先に「抹殺」するのが原則です。それは、システムを破壊する可能性を包含する、異質なモノなのだからです。
しかし、同時に、組織にとっては、これらの「突出した個性」は、定期的に一定数発生してもらわなければ困るのです。組織が、「突出した個性」をいつでも使える状態に置いておかなければ、社会の変化に対応することができないからです。
だからこそ『「個性」は大切である』と説かれるのです ―― 「真っ先に殺す」こと前提として。
組織が『「個性」は大切である』と言うのは、全く正論です。しかし、個人が『「個性」は大切である』と信じることは、自殺行為ということです。
忘れてはならないのは、我が国における個性においては、大半の個性には何の価値もないということです。価値があるのは、「金を産み出すことのできる個性」だけです。
もっとぶっちゃけて言えば、「金を産み出すことができる何か」であれば、別段「個性」でなくても構わないのです ―― 「凡庸」「隷属」「長時間労働や単純純作業に耐えられる忍耐力」、何だっていいのです。
さて、本論に入る前に、もう一つだけ、冒頭の「三角関数は必要か」(転じて、古典は必要か、歴史は必要か、英語は必要か、現国は必要か、体育は必要か、理科は必要か)について、考えてみたいと思います。
私は、今回のコラムで、現在の教育カリキュラム、―― 『日常生活に直接的に役に立っているとは"到底"思えない教育』が、いつから、どのように始まったのかを調べてみました。
これは、明治維新の政府が断行した、(1)殖産興業と(2)国民皆兵の人材の"量産"がルーツのようです。簡単に言うと、
―― 「高効率な労働者」または「即戦力となる軍人」を、低コストで量産する、マニュアル型促成プロセス
から来ているようなのです。これは、ファストフード店の接客マニュアルと、その方向性において同じです。
実際に、戦前の海軍やら陸軍士官学校の教育内容を調べてみたら、ほとんど今の学校教育と同じ内容でした。
この事実から分かることは、この海軍士官というエリート*)育成教育カリキュラムが、そっくりそのまま、現在の日本国の子どもたち教育プロセスとして踏襲(とうしゅう)されているということです。
*)社会の中で優秀とされ指導的な役割を持つ人間や集団のこと
しかし、私たち日本人のほとんどは、
- エリート意識など欠片(かけら)もなく、
- 立身出世の野心もなく、
- 国家のリーダーとなる自覚なんぞ絶無で、
- ただ日々平穏に生きていきたいだけ
です。
それにもかかわらず、本人の資質(能力とか才能)を無視して、"超"が付くエリート育成教育を、強要され続けているのです。
このむちゃくちゃなエリート育成教育で、「落ちこぼれ」たり、「ひきこもり」したりする人間が、100万人オーダーで発生するのは、至極当たり前です ―― 正直『少ないくらい』だとさえ思います(関連記事:「政府の地雷? 「若者人材育成」から読み解くひきこもり問題)。
もっとも、このエリート育成教育によって、日本が世界有数の経済大国になった面も無視することはできません(現在、絶賛、没落中ですが)。
まとめますと「三角関数」を含めた教育とは、―― それが、個人の幸福に資しているかどうかは全く不明ですが ―― 少なくとも、国家を支える、高効率の「生産装置」となるための手段としては、有用であったかもしれない、という、「検証されていない過去の実績」だけが、
―― 現時点における、「三角関数の必要性」の唯一の根拠
である、ということなのです。
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