リカレント教育とは、“キャリア放棄時代”で生き残るための「指南書」であるべきだ:世界を「数字」で回してみよう(60) 働き方改革(19)(9/9 ページ)
前回に続き、働き方改革から「リカレント教育」を取り上げます。現在のリカレント教育は「エリートによる、エリートのためのもの」という感が否めません。本当のリカレント教育とは、“キャリア放棄時代”を生き抜くための対抗策であるべきだと思うのです。
「ITネグレクト」は優しさか、虐待か
後輩:「江端さんの教育に関するコンテンツでは、あの『ITネグレクト』(著者のブログ)は、秀逸でした」
これは、江端家のパソコンとネットワークに関する、家族とのやりとりを書きつづったものです。
嫁さんや娘たちが、自宅のパソコン、プリンタ、Wi-Fiに関することを、何でも私に尋ねてくるので、私が、キレぎみに『まずはGoogleで調べろ』と言った際、『何のキーワードで探せばいいのか分からない』と言い返されてしまいました。
『そりゃそうだ』―― と、私も納得しました。
彼女たちに打ち込めるフレーズは「プリンタで印刷できない」「Webに何も表示されない」「Wi-Fiに接続できない」くらいです。
しかし、彼女たちがこれらを解決するためにGoogleで検索するには、その問題を引き起こす原因を「言語化」できる程度の知識 ―― 具体的には、IPアドレス、MACアドレス、DNSサーバ、プロトコル、ファイアウォール、pingといったオペレーションの言葉とその意味を知っていなければなりません。
しかし、私は、これらの言葉と意味を一から教えることが、眩暈(めまい)がするほど面倒で、ついつい、『ええい! もういい!! 私が自分でやる』と言ってしまうのです。
この結果、彼女たちは、いつまでたっても自宅のパソコンとネットワークの故障を自力で直すことができません。
これが、いわゆるIT教育の放棄、「ITネグレクト」です。
後輩:「今回の江端さんのコラムの最後の『3層の教育アーキテクチャ』を説明するのに、この『ITネグレクト』は、これ以上もない説得力のある実例だと思いました」
江端:「私は、自宅のITインフラのメンテナンスを、全て自力でやる必要はないとは思ってはいるんだ。水道、電気、ガスだって、自分でメンテナンスすることはできないしね。私が問題提起しているのは、『家庭のITをメンテナンスするサービス業が、ビジネスとして確立していない』ってことなのだけど」
後輩:「江端さん。水道、電気、ガスのインフラの目的は、『水、電気、ガスの供給』そのものです。これは100年前から1ミリメートルも変わっていません」
江端:「それで?」
後輩:「比して、ITインフラは、通信速度が5年単位でケタ違いに向上していき、通信プロトコルさえも2〜3年で更新されていき、パソコンやスマホが2年程度で入れ変わり、アプリケーションについては、毎日生産されているくらいです。ITインフラを、水、電気、ガスのインフラと同列に論じるのは、無理があります」
江端:「ならば、なおのこと、ビジネスとして成立し得るはず…」
後輩:「はあ〜〜、これだから、困るんですよね、”ITエリートのおごり”ってやつは」
江端:「”ITエリート”って……、もしかして、私のことか?」
後輩:「あのね、江端さん。『江端さんの常識は、普通の人にとっての非常識』なんですよ。分っていますか、その辺。誰もが、1秒間に数千個も発生するイーサネットフレームの追跡が行える訳じゃないんですよ」
江端:「いや、私は、誰もが「Wireshark」を使えるべき、などとは思っていないぞ」
後輩:「そういうことではなくて、ITサービスのメンテナンスをできるだけの人間は、数えるほどしかいない、ということなのです。そういう人は少数であり、エリートなのです。で、そのエリートは、自分がエリートであることに無自覚であり、それ故に、悪意なく平気で他人にムチャな要求を言うのです」
江端:「……」
後輩:「今回、冒頭で、江端さんは、三角関数不要論者に対して、『いろいろ言っているけど、要するにお前ら、三角関数が嫌いなだけだろう』と非難していますが、江端さん自身も、一度”三角関数エリートとしての自己批判”をしてみる必要があるんじゃないですか?」
江端:「え? 何? さ、三角関数エリート?」
後輩:「まあ、その話はいいです。『ITネグレクト』に話を戻しますが、つまり、基本的に家庭向けのITの保守ビジネスでは、全然ペイしないんですよ。ぎりぎりペイするのは、データセンターとか銀行のATMシステムとかの、社会の基盤系システムくらいです。ネットワークの知識を持っている人は、全部、そっちに持っていかれてしまっています」
江端:「しかし、家庭向けのITメンテの市場規模はそうとうにデカイと思うぞ。国内、5042万世帯だ」
後輩:「江端さん。Amazonで5000円で買ったWi-Fiアクセスポイントの設定に、10万円をポンと払う人が、どれくらいいると思いますか?」
江端:「……」
後輩:「私が、この『ITネグレクト』のパラダイムがすごいと思ったのは、この問題が、(1)市場規模が潤沢にあり、(2)そのニーズがものすごく強いにもかかわらず、(3)ビジネスモデルが成立しない、という、市場経済原理が機能しないこの奇妙な状況に対して、江端さんの教育3層モデルの妥当性が実に説明しやすい、ということなのですよ」
江端:「まだよく分からんのだが……」
後輩:「まあ、それも後でゆっくり考えてください。で、今回の『ITネグレクト』なのですが、私にも同じような話があります」
江端:「ん?」
後輩:「私の親戚に、ITに詳しい夫が死亡したことによって、妻が、完全に世界から分離されてしまったという事件があったのですよ。パスワードなども不明だったので、パソコンの設定はもちろん、メールやSNSも使えなくなり、今、一人残された妻は、親戚、友人とも連絡が取れない状態になっているらしいです」
江端:「そりゃ……想像を絶する悲劇だな」
後輩:「この夫の行いは、妻に対して、愛に充ちた優しさであり親切であったと言えるかもしれません。一方、たとえ、厳しく接して嫌われたとしても、夫は、最低限の『ITリテラシー教育』を妻に施すべきだった、とも言えるかもしれません」
江端:「……」
後輩:「さて、江端さん。これは、どちらが『虐待』で、どちらが『教育』だったと思いますか?」
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Profile
江端智一(えばた ともいち)
日本の大手総合電機メーカーの主任研究員。1991年に入社。「サンマとサバ」を2種類のセンサーだけで判別するという電子レンジの食品自動判別アルゴリズムの発明を皮切りに、エンジン制御からネットワーク監視、無線ネットワーク、屋内GPS、鉄道システムまで幅広い分野の研究開発に携わる。
意外な視点から繰り出される特許発明には定評が高く、特許権に関して強いこだわりを持つ。特に熾烈(しれつ)を極めた海外特許庁との戦いにおいて、審査官を交代させるまで戦い抜いて特許査定を奪取した話は、今なお伝説として「本人」が語り継いでいる。共同研究のために赴任した米国での2年間の生活では、会話の1割の単語だけを拾って残りの9割を推測し、相手の言っている内容を理解しないで会話を強行するという希少な能力を獲得し、凱旋帰国。
私生活においては、辛辣(しんらつ)な切り口で語られるエッセイをWebサイト「こぼれネット」で発表し続け、カルト的なファンから圧倒的な支持を得ている。また週末には、LANを敷設するために自宅の庭に穴を掘り、侵入検知センサーを設置し、24時間体制のホームセキュリティシステムを構築することを趣味としている。このシステムは現在も拡張を続けており、その完成形態は「本人」も知らない。
本連載の内容は、個人の意見および見解であり、所属する組織を代表したものではありません。
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