ある医師がエンジニアに寄せた“コロナにまつわる現場の本音”:世界を「数字」で回してみよう(62) 番外編(5/10 ページ)
マスクは、「他人へのウイルス拡散防止」にはなっても、「他人から自分へのウイルス拡散防止」にはならない。こんな非対称的な論理が、なぜ成立するのだろうか――。今回のコラムは、私のこの疑問に対して、現役医師で、私の過去のコラムでも何度もお世話になっている「轢断のシバタ」さんが下さった、1万字以上にも及ぶメールを紹介するものです。
正体不明のCOVID-19
ここからは、現場の医師の立場からの愚痴……もとい、独り言です。この独り言は、私の所感であり、現時点では医学的、または科学的なウラ(証拠)を示せない話ですが、それでも参考になるかもしれませんし、江端さんが好きそうなお話なので、開示してしまいます。
現場(私たち医師)は、COVID-19と、既存の4種のコロナウイルス*)をまったく同等に考えて良いかどうか、実際には正解が分かっていません。
*)ヒトに日常的に感染する4種類のコロナウイルス(Human Coronavirus:HCoV)には、現在、HCoV-229E、HCoV-OC43、HCoV-NL63、HCoV-HKU1がある。動物から感染する重症肺炎ウイルスが、重症急性呼吸器症候群コロナウイルス(SARS-CoV)と、中東呼吸器症候群コロナウイルス(MERS-CoV)が知られている(参考:国立感染症研究所)。
今回のCOVID-19は新興感染症のため、抗体を持っている人が居ません。ウイルスはノーチェックで標的の細胞に入り込み、増殖し、感染を成立させる可能性があります。
既存の風邪であれば、体内の抗体がウイルスに反応するので少量のウイルスなら発症しないですむのですが、抗体が無い状態のCOVID-19に対しては、既存のウイルスよりも「ごくわずかのウイルスによる感染」が成立している可能性があります。
一般的には、ウイルスの量が少なければ標的細胞にたどり着く確率自体が下がりますし、曝露(ばくろ)量が減れば感染から発症までの時間が多少は長くなるので、マスクの意味は理論上あるはずです。
しかし、「ごくわずかのウイルスによる感染」が成立してしまうならば、目の粗い市販のマスクで口腔へのウイルスの進入量を多少減らしても、既存のウイルスよりもマスクの意味が少ない、つまり感染阻止効果が低い可能性もあるわけです。
さらに仮説の域を出ませんが、COVID-19感染者にマスク着用を促すことは、周囲の人間にとっては確実に利益になりますが、患者にとっては不利益になる可能性も否定できないと思っています。
私の考える仮説は以下の通りです。
(1)マスクに大量のウイルスが付着した状態が長く続けば、エアロゾル化したウイルス飛沫を繰り返し肺に取り込み続けることになります。感染者にとっては、抗体ができあがるまでなるべく肺の病変の進行拡大を遅らせることが生命予後にクリティカルになると思いますので、飛沫は体の外にせっせと排出し続けることが望ましい、という考え方も成り立つのです。
(2)ただし、上記(1)の科学的根拠はゼロです。なぜなら、「肺の中がウイルスだらけなのに、マスクの有無程度で肺の中の炎症区域が拡大することなんぞ、ありえない」と言われたら、反論ができないからです。
(3)しかしながら、防護服とマスク内部に密閉された状態での医療活動を強要された武漢の若い医者がパタパタと死んでいくのを見ているうちに、この上記(1)の仮説を完全に無視できないのではないか、と考えるに至りました。
実際のところは、現場の医師の過労や既往症、感染初期のウイルスへの曝露量、ウイルスとの相性などさまざまな要因があったと思います。
正直なところ、マスクの効果も含めたCOVID-19の詳細な挙動、つまり正体は不明です。ぶっちゃけ、医師であっても「分からない」ということです。
今回は感染者と非感染者におけるマスクの役割の非対称性が議論の入口でしたが、例えば感染者におけるマスクの着用率と衛生習慣、世間のマスクの着用率と衛生習慣を比較して、COVID-19に対してマスクに予防効果が認められるかどうか、現在までに割と十分な症例数がありそうですので、そのうち私以外の「誰か」が論文にまとめてくれるかもしれません。
現実問題として現在の医学研究環境では興味の赴くままに勝手に動いてデータを手に入れるのは困難で、私がCOVID-19についてオリジナルの解析をする事はないでしょう。
COVID-19関連のデータ解析は長崎大学の感染症共同拠点や、国立感染症研究所が中心になっているようです。日々新たな知見がどんどん流れてきています。感染症専門の先生方には頭が下がる思いです。ただ、流れてくるデータの中に高度なコンピューターシミュレーションは含まれていなかったような気がします。
こんな時に、データ解析のエンジニアで、かなりムチャな仮説を掲げては、シミュレーションでつっこんでいく、傍若無人の週末エンジニア & ライターの方がいれば良いと思いますが、誰かご存じありませんか、江端さん。
ただ、シミュレーションの大家であったとしても、完全にデザインされていない集団のデータから意味のある結論を出すのは割としんどいと考えられます。
というのは、「イタリアと日本の感染者の増加速度や致死率の差がマスク装着率に起因する」ということを示唆する数字は簡単に出てきそうですが、そこから手洗いや、清潔に対する潔癖気味な意識、咳をしている人への冷たい対応、ハグやチークキスなどの社会文化の影響を完璧に除外してマスクの効果のみを抽出するに足るデータがないからです。
余談ですが ―― 栄養失調やマラリア、予防接種が打てない、普通の肺炎、清潔な水が無い、ただの下痢などの理由でバタバタと子供や若者が死んでいる国の人のことを考えたら、日本人のマスク購入金額だけで何十万人の命が救えそうだよなぁ……」とか、「平均寿命が50歳代の、若者ばかりの発展途上国にとっては逆に脅威が低いかもなぁ……」などの考えもちらちらよぎります。
現在、全世界の政府が行っているCOVID-19の感染対策の対応は、4点に集約されます。
(1)ピークを遅くすることで社会の崩壊や大混乱を、中混乱から小混乱に抑える
(2)ただし、現在の対応だけでは今後数年間(例えば5年間)のCOVID-19による総死者数を減らすことはできない。あくまでピークを抑えるだけ
(3)医療機関へ押し寄せるであろう患者の津波の規模を、なんとか一定数に抑える
(4)その間に致死率を下げるためのワクチンや治療法の開発に期待する
というものです。
特に、上記(2)の「ピークを遅くすることで、死者の発生時期を分散させる」というのは非常に重要です。これについて、あまりマスコミでは取り上げられていませんが、現場のリアルな怖い話をしましょう。
ある市の試算では、うっかり全員に検査をした場合、毎日、万単位で外来に患者が押しかけて外来機能が麻痺(まひ)することが予想されています。
今まで助かっていた心筋梗塞、脳梗塞、外傷、重症感染症、その他の治療可能な救急疾患が、病院外来と入院病床が飽和することで一転して命に関わる疾患に変化する瀬戸際にあります。
冗談ではなく、本当に瀬戸際なのです。呼吸器内科は、悲鳴を上げています。ベッドを確保するために、他の科も協力しています。「すぐに死なない待機手術(ガン患者を含む)」が、既に延期を余儀なくされつつあります。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.