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中堅研究員はAIの向こう側に“知能”の夢を見るかOver the AI ――AIの向こう側に(1)(3/8 ページ)

今、ちまたをにぎわせているAI(人工知能)。しかしAIは、特に新しい話題ではなく、何十年も前から隆盛と衰退を繰り返してきたテーマなのです。そしていまだに、その実態はどうも曖昧です。本連載では、AIの栄枯盛衰を数十年見てきた私が、“AIの彼方(かなた)”を見据えて、AIをあらゆる角度から眺め、検証したいと思います。果たして“AIの向こう側”には、中堅主任研究員が夢見るような“知能”があるのでしょうか――

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そういうAIは、今、一体どこにあるんですか?

 こんなことを書けば、世間のほとんどのAI研究やAIのサービスに関わる人を敵に回してしまうことは、重々承知していますが、それでも、なぜ、私が、こんな風に、AIを語る人のことを悪しげに言うかというと、理由があるのです。

 今から、25年ほど前(AI第2ブームの時)にも、そういう人間を山ほど見てきたからです。それは、バブル時代が終焉(しゅうえん)を迎えるちょっと前の、ファジィやニューロの技術で騒がれた頃のことです。

 そして、さらにもう35年程前ほどさかのぼると(AI第1ブーム)――さすがに、私もまだ生まれていませんが――AIに対する畏怖と嫌悪と、そこに東西冷戦の恐怖(核戦争)も加わって、今とは比べものにもならないほど、こういう類(たぐい)の人間が山ほどいたようです。

 そして、そのような人の多くが、厚顔甚しくも「これでもう、コンピュータは人間と同じような知能を持ったもの同然だ」と豪語していたのです。

 ですから、私は伺いたいのです。


 ――で、そういうAIは、今、一体どこにあるんですか?

 ――今、ここにないなら、私は、いつまで、そういうAIの登場を待ち続けなければならないんですか?


 私は、浅学、ひきょう、狭量をキャッチフレーズとするライターではありますが、この人たちよりは、真摯かつ真剣に、AIを理解しようとして、AIを役に立てようとして、AIの機能を自分の手で実装してみて、そして、『希望で始まり、絶望で終わる』を繰り返してきたという自負があります。

 そういう意味において、私は、少なくとも上記のような人たちと比べれば、「私はAIを語る資格はある」と思っているんです――つまり、まだマシだ、と。

AIとは、極めて主観的なもの

 私はこの連載で、そもそもAIとは何か?――という話をするつもりはありません。

 もし、この話に持ち込めば、連載5回分を、その話だけで続ける自信がありますが、そんなものは、上記の様な人達が山ほど書いてくれているので、そちらを参照してください。

 私は、「製作者が『AI』と主張すれば、誰がどう反論しようが、それはAIである」と考えており、「AIとは、極めて主観的なもの」と認識しています。

 これを論証してみましょう。

 AIとは、人工知能です。人工とは「人の手が加わったモノ」を言い、そして知能とは「問題を解決する能力」のことです。

 ならば、エクセル(表計算ソフト)は、AIと呼ばなければなりません。

 Microsoftのプログラマーがコーディング(手を加えて)したモノで、各種のデータ計算処理を簡単に行うという問題を解決する能力がありますから。

 線形計画法はAIですし、PERTなどのスケジュール計画法もAIです。各種の最適化問題のアルゴリズムもAIですし、問題を解決するための全てのプログラムはAIです。

 それどころか、「問題を解決しないプログラム」というものは観念することができないので、「全てのプログラムはAI」と言い切ってもいいはずです。

 しかし、多くの人が、「それはAIでない」と感じていて――そして、その明確な理由が説明できないのです。

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