弱いままの人工知能 〜 “強いAI”を生み出すには「死の恐怖」が必要だ:Over the AI ―― AIの向こう側に(13)(4/9 ページ)
AI(人工知能)には、「人間のアシストをする“弱いAI”」と「知性を持つ“強いAI”」があるという考え方があります。私は、現在の「AI」と呼ばれているものは、全て“弱いAI”と思っています。では、私たちは“強いAI”を生み出すことができるのでしょうか。それを考えるには、人間にとって、恐らくDNAレベルで刻まれているであろう普遍的な感覚、「死への恐怖」がヒントになりそうです。
「AIが○○した」という見出しが躍る
さて、「AIの知性」に関した話題としては、最近「AIが○○した」というフレーズが、新聞や雑誌、Webニュースの見出しとして踊っています。
特に最近では、「AIが小説を書いた」は、かなりセンセーションな話題となっていました。これが事実であれば、今世紀最大級の発明になっているはずですが ―― 今や、その話を全く聞かなくなりました。
そんな訳で、今回「AIが○○した」を、ざっくり調べてみたのですが ―― もう、本気で泣きそうになりそうなほど、それはそれはショボい話のオンパレードでした。
一つ一つ説明するのも面倒くさいので、割愛しますが、ともあれ、このニュースの内容で「AI」が主語になる理由が、全く分かりません。ここで「AI」といわれているものは、人間のアシスタントをしているだけのもので、(私見ではありますが)「ワード」「エクセル」またはIME(日本語入力ソフト)と何ら変わりません。
もっとも、私自身、この連載の第1回「中堅研究員はAIの向こう側に“知能”の夢を見るか」で、「製作者が『AI』と主張すれば、誰がどう反論しようが、それはAIである」という、江端ドクトリンを発信してはいるのですが。
それでも、「AIが小説を書いた」と言われれば、大抵の人は、「何の操作もしていないパソコンのプリンタから、次々と小説が印刷され、それを読んで、人々が目を丸くする」という場面を想像しますよね(そんでもって、小説家やライターが失業する、という定番パターンの『AIによる失業』論が展開される、と)。
しかし、そのようなAIは、少なくとも現在のコンピュータアーキテクチャのパラダイムでは、絶対に起こり得ません。
以下、その理由について、いろいろな「権威」を引用して論を進めてみたいと思います。
「弱いAI」「強いAI」
先ほど紹介したジョン・サール先生は、私が感じているイライラに対して、AIを2つの概念、"弱いAI"と"強いAI"の2つで考えることを提唱しています。
簡単に言うと、"弱いAI"とは、人間の知的作業をサポートするAIであり、"強いAI"とは知能を持つAI、となります。
囲碁や将棋のAIは、一見"強いAI"のようにも見えます。しかし、囲碁や将棋のAIは、ルールに従って処理を進め、局面ごとに確率的に妥当な手を計算しているだけです。
ゲームに勝つと、そのゲームの内容をさかのぼって、局面単位の「手」の評価値(数値)を上げ、負ければ評価値を下げます。「勝負に勝つ」ことも「勝負に負ける」ことも、囲碁や将棋のAIにとっては、評価値を変更するために使われるパラメータの1つにすぎません。
もっと極端に言えば、囲碁や将棋のAIは「負ける方法」も学習しているといっても良いのです。そして囲碁や将棋のAIは、「負ける」ことが「悪いこと」などとは1mmたりとも考えていません。そういう意味において、囲碁や将棋のAIは、"強いAI"の範ちゅうに入れることは、できないのです。
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