価格競争は早めに手放す、付加価値の追求を急げ:イノベーションは日本を救うのか 〜シリコンバレー最前線に見るヒント〜(18)(1/2 ページ)
HDD業界は、再編が最も激しい分野の1つだろう。現在はもうHDD事業に携わっていない2社の関係を振り返ると、価格競争の厳しさが非常によく分かる。
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価格交渉ができなかったQuantum
東芝がHDD事業の構造改革策を発表したのは、2016年2月のことだ。市場が縮小するHDD事業で黒字化を目指すためである。HDD業界は、スマートフォンをはじめとするモバイル機器の多様化や、ストレージの多様化などで市場成長が鈍化しており、生き残りをかけたメーカーによる再編が最も激しい分野の1つだ。
今回紹介する米Quantum(クアンタム)も、そうしたHDD業界再編の波にのみ込まれたメーカーの1社である。
1996年の暮れに、筆者は、経営人材に関する総合コンサルティング会社であるエゴンゼンダーで当時、日本法人のトップを務めていた小幡善章氏から1本の電話を受けた。Quantumと、そのマニュファクチャリングパートナーである松下寿電子工業(現パナソニック ヘルスケア)との関係をうまく取り持つことのできる人物を探しているという。
当時のQuantumはファブレスメーカーで、松下寿電子工業(以下、松下寿)に100%、製造を委託していた。愛媛県の旧一本松町(現在、その他複数の自治体と合併して愛南町となっている)に工場があり、そこで製造していたのだ。
余談にはなるが、この一本松町という所は“陸の孤島”で、筆者も何度も訪れたことがあるが、たどり着くのがなかなかに困難な場所であった。ただ、Quantumの従業員が常時数十人、駐在していたので、町のレストランのメニューには英語が併記されており、カラオケにも洋楽がたくさんあったことを覚えている。筆者は、愛媛県の松山市に入り、宇和島市を経由して一本松町に行くことが多かったのだが、松山では必ずといっていいほど、道後温泉本館で朝一番の温泉を楽しみ、地元のおじいさんたちの孫談義を聞いていた。
さて、松下寿に100%製造委託していたQuantumは、松下寿から出荷されてくるHDDの正確なコスト構造が分からなかったため、価格交渉によってしか製造を委託できなかった。「こんな価格を提示されたが、もっと安くなるのではないか」と疑問に思っても、自分では工場を持っていなかったので、相手と交渉する根拠がなく、不利ともいえる立場で関係を続けていた。当然、もめることも多かったので、Quantum側は中立的な立場で交渉やアドバイスができ、松下寿も採用に合意できるような、日米のビジネスに通じた人材を探していたのである。
そういった経緯で、筆者は上記のような人材を探しはしたのだが、結局は筆者にそのオハチが回ってきて、最終的に筆者が引き受けることになった。
当時のQuantumの社長は、Michael Brown氏が務めていた。彼はAppleからHDDを受注することに成功した人物で、その功績が認められて社長となった。上場企業の社長としては当時39歳とかなり若い方だったが、非常にバランスの良い、優秀な人物だった。筆者は、Brown氏のアドバイザーという立場で、Quantumと松下寿とのビジネスに関わった。そして幸いなことに、両社は、しばらく蜜月が続いたのである。
QuantumのHDD部門が売却される
PCの普及に伴い、1990年代後半は多くの企業がHDDを手掛けたが、一方で大容量化、小型化、低コストが要求され、HDD業界にとっては厳しい時代だった。メーカーは軒並み利幅が少なくなってきて、再編が活発に行われていたのである。1980年代には70社以上ものメーカーが存在したHDD業界だったが、激しい再編を繰り返し、2000年にかけて急激にその数は減っていった。
Quantumも例外ではなく、仕入れ価格が高かった(もちろん、これは、松下寿に言わせれば、同社も利益が出ていない状況だった)こともあり、極めて苦しい事態になっていたのである。他社との合併も視野に入れて動いていたQuantumは、2000年にHDD部門をMaxtorに売却した。筆者は引き続き、Maxtorの社長であるMichael Cannon氏の元でアドバイザーを務めた。
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