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意味不明の「時短」は、“ツンデレ政府”のSOSなのか世界を「数字」で回してみよう(45) 働き方改革(4)(8/11 ページ)

「働き方改革」において、「生産性」に並ぶもう1つの“代表選手”が「時短」、つまり「労働時間の短縮」ではないでしょうか。長時間労働の問題は今に始まったことではありませんが、どうしても日本では「時短」がかなわないのです。それは、なぜなのでしょうか。

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政府のもくろみ

 では、政府は一体何をもくろんでいるのか ―― それが問題となってきます。

 私、最近、町内会の役員をやらされているのですが、行政が町内会に公共サービス(特に介護)に関して、いろいろと押し付け始めているのを感じています。既に、行政は「育児」「介護」(その他、防災なども)のソフトサービスについて、限界に来ている、という感じがひしひしと伝わってくるのです。

 つまり、政府は「仕事(お金を稼ぐ)」を2割程度(前述)サボってもいいから、「仕事(育児、介護)」に負担を回せ、あるいは「仕事なんぞ2割程度サボってもいいから、貯金なんぞせずに、派手に金を使って遊べ」と言いたいのだと思うのです(ここまで露骨には言えないでしょうが)。

 では、私たち個人の思惑はどうなっているのでしょうか。

 私たち労働者にとっては、長時間労働は、残業代を稼ぐ効率的な手段ですが、今や長時間労働が「殺人装置」に成り果ててしまっていることは、前述した通りです。

 とすれは、私たちにとっての時短の最大の意義とは、「殺されない/壊されない」のひと言に尽きるでしょう。

 独身や少子化は、国家(行政府)としては大問題ですが、私たち個人としては最適戦略です(参考記事:Business Journalのサイトに移行します)。

 私たちは、別段、国のために生きているわけではないのですから、時短によって生まれた時間を、好きなことに費して良いのです(もっとも、デートで高い食事をして、入場料の高いテーマパークで遊んで、恋愛して、結婚して、子どもを作れれば、国もきっとうれしいでしょうが)。

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