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あなたは“上司”というだけで「パワハラ製造装置」になり得る世界を「数字」で回してみよう(46) 働き方改革(5)(1/12 ページ)

今回のテーマは「労働環境」です。パワハラ、セクハラ、マタハラ……。こうしたハラスメントが起こる理由はなぜなのか。システム論を用いて考えてみました。さらに後半では、「職場のパフォーマンスが上がらないのは、上司と部下、どちらのせい?」という疑問に、シミュレーションで答えてみます。

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「一億総活躍社会の実現に向けた最大のチャレンジ」として政府が進めようとしている「働き方改革」。しかし、第一線で働く現役世代にとっては、違和感や矛盾、意見が山ほどあるテーマではないでしょうか。今回は、なかなか本音では語りにくいこのテーマを、いつものごとく、計算とシミュレーションを使い倒して検証します。⇒連載バックナンバーはこちらから


社内イベント復活の兆しにおののく

 最近、「生産力向上」の手段として、職場の士気向上、チームワークの強化を図るために、いわゆる飲み会や、従業員の家族を加えた社内運動会、職場旅行などが復活される兆しがあるようです。

 正直なところ、私は凶兆だと思っています。

 今から20年以上も前の1990年代、公的なイベントに私的な時間を費すことの批判が殺到し、社内運動会などの実施は、事実上の廃止に追い込まれました。

 理由は簡単 ―― 誰も幸せにならないから

 管理部門は、営業利益と全然関係のないイベントのために奔走しなければならず、下手すれば半年もの時間を費されることになりますし、業務部門は、数少ない休日を会社のイベントでつぶされます。社員の家族に至っては、迷惑千万もいいところです。

 「職場としての自分」と「職場を離れた自分」は、完全な別人格であり、相互に干渉すべきでないというスタンスは、1990年代後半には、おおむね完成して、社会に定着したと思います。


 ところが、最近、

  • 部下のことを、「人柄から家族背景などを含めて全人格的に知っている」という関係を取り戻そうという動きが必要だ
  • そのためには、仕事や職場以外の飲み会などでの付き合いも、単なる個人主義によって避けることなく、見直していくとよいだろう

などと主張する記事が、堂々と掲載されるようになってきております。


 よくない兆候だ ―― と、私は警戒しています。


 ワーカホリックによる、家族の崩壊が叫ばれていた1990年代において、私たちは、「その部下のことを人柄から家族背景などを含めて全人格的に知っている」という、公私混同を当然扱いする、組織の悪しき風潮を止めようと闘ってきました。特に管理職(部長職以上)や管理部門(総務課など)の圧力に対して、徹底的なサボタージュで対抗し、事実上それらの企画を、片っ端から、たたきつぶしていきました。

 そのようにして、企業などの組織への帰属感だけで完結しない、確固たる「個の確立」を目指していたハズです。

 このような過去の経緯を無視して、部下や上司を「全人格的に知っている」ことを、今になって「是」とするような主張を、私は「卑怯(ひきょう)」だと思うし、はっきり言えば「下品」であるとすら思います。


 なにより、私が、各種イベントの復活の風潮を「嫌らしい」(はっきり言えば「汚らしい」)と考えるのは、社内運動会、職場旅行が、会社の業績に資するらしい、ということが分かった「」で、各企業が動き出していることです。

 90年代前の社内運動会、職場旅行には、「職場の和」という目的(名目)があったとはいえ、そこに「金の匂い」は、一切なかったように思うのです。

 そこにあったのは「職場の和」という価値観と、「私人としての個」としての価値観の、イデオロギーの対立であり、それは、(今になって考えれば)正々堂々とした思想闘争であったと思うのです。

 しかし、ここに「金の匂い」が入ってきたら、どうなるか。

 企業が、利潤を目的として、飲み会、社内運動会、職場旅行を命令したら、それは業務命令です。

 業務命令ということになれば、管理職である私(一応、主任)は、自分の価値観に反しても、管理職の立場から、飲み会に参加し、運動会をサポートし、職場旅行の企画を部下に命じることになるでしょう。

 そして、自らも、楽しくもない酒を飲み、酔ったふりをして、叫び、騒ぎ、多分、相当に疲労し、憔悴(しょうすい)するでしょう。

 結果として、職場の士気向上に貢献する(?)ことができたとしても、私個人としての労働意欲は激減していくだろう、と確信しています。

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