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見せろ! ラズパイ 〜実家の親を数値で「見える化」せよ江端さんのDIY奮闘記 介護地獄に安らぎを与える“自力救済的IT”の作り方(4)(3/6 ページ)

介護にまつわる話題において、よく聞かれるのが「誰にも迷惑をかけたくない」という言葉です。この“迷惑”という観念に対する対処法を考える時に、外せないのが「尊厳死」と「安楽死」です。被介護人が、全く意思疎通ができない“ブラックボックス”のような状態になった時、あなたならどうするでしょうか。そして、自分がその立場ならばどうされたいでしょうか。後半では「ラズパイ」を使い、実家の親の日常を数値とグラフで「見える化する」方法をご紹介します。

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人はなぜ、「迷惑をかけずに死んでいきたい」と思うのか

 では最初に、この第2の問題である「迷惑」について考えみたいと思います。

 まず、高齢者や介護者に限らず、多くの善良で良識的な人の言うフレーズに「迷惑をかけずに、死んでいきたい」というものがあります。

 この「迷惑」について、私なりに考えてみました。

 ぶっちゃけますが、迷惑をかけない生き方は、(1)他人に不利益を与えず、不快を与えない生き方を100%実践すること、か、(2)存在を止めてしまうこと(自殺など)、の2つしかありません。

 上記(1)の生き方は、福祉制度のある国家(例:日本国)においては不可能です。なぜなら、税金やそれに基づく社会保障システムが、「迷惑の相互の交換」を前提としているからです。

 もっとも、それ以外にも「迷惑」と言われるものがあります。それを具体的な事例で考えてみたいと思います。

 基本的に、育児は、介護に匹敵する巨大な迷惑です(この話をすると、嫁さんに『育児を迷惑の範疇(はんちゅう)に入れるな』と言われましたが)

 「仕事」や「恋愛」に至っては、毎日が「迷惑」の投げ合いをしているようなものです。私たちが、これらを「迷惑」と言わないのは、投げつける「迷惑」と、ぶつけられる「迷惑」の数が、おおむね一致しているからだろうと思っています。

 で、私たちが一般的に「迷惑」という概念で共通できるのは、上記#2の「子どもによる、公共の場での喧騒」や、上記#3の「若者や大人の公共の場での不適切行為(花見のよっぱらいといか、電車の車内での大声の会話とか(痴漢は「迷惑」ではなく「暴力犯罪」)」くらいになると思います。

 念のため、次女(高校二年生)にも意見を聞いてみました。

 特に上記の#3について、例えば、ツイッターで迷惑行為をネットに垂れ流す若者は、不適切行為をしたいのではなく、どうも仲間内で、そのような行為をする「役割を期待されている」というプレッシャーもあるようです。

江端:「他の人に不快な思いをさせている、という認識あるのか?」

次女:「あるよ。絶対にある。あるけど、その人は自分の人生には関係ない人でしょ? 明日もあさっても付き合っていかなければならない仲間を優先して、『不適切行為』をするという役を演じなければならないんだよ」

江端:「そりゃ大変だなぁ」

 次女が言うには、若者の迷惑行為とは、「迷惑行為と非難されることを計算した上での、仲間と明日を楽しく生きていくための最適戦略(トレードオフ戦略)である」ということのようです(で、その計算能力が乏しいバカが、ネット炎上をさせて、人生を台無しにしている、と、いうことのようです)。

江端:「(#5の)『恋愛はエネルギー保存法則』などというのは、本来、私のセリフなのだけどなぁ」

次女:「でも、実際に、そういうものだし」

 私は、それ以上のことを次女に尋ねませんでした。まあ、彼女は彼女なりに、いろいろあるのでしょう。

 この話をまとめると、「迷惑」というものは、「迷惑」として発生・存在しているものではなく、それが、ある人間との関係において「迷惑」として完成する、ということになります。

 では、最後に介護における「迷惑」に特化して、考えてみましょう。

 この介護における「迷惑」は、どうやら、他の迷惑と異なる点があるようです。この「迷惑」は、社会が認知するのではなく、自分の中に自己生成するもののようです。

 次女は、介護の「迷惑」とは、過去と未来の2方向からの自罰的な意識によって生成する、と言っています。

 まず、過去においては、自分の親(あるいは友人からの伝聞でも可)で、親の介護に負担を感じつつ、そのことに後ろめたさを感じ、それを公にできずに、自分の中で「介護は迷惑」という自分のルールを生成するということです。

 そして、将来においては、介護サービスに劇的な改善がなく、税収の状況を見る限り介護サービスは悪化の方向しかイメージできません。

 死の恐怖があるから、ペースメーカーや胃ろうなどの手段があれば、それにすがりつくしかなく、途中で、そのようなデバイスの使用を中止したくなっても、それを合法的に実現してくれる法律もなく、サービスもない。

 さらに、将来、老人介護施設の中のレクリエーションの中に参加しているであろう自分の姿を見つけて慄然(りつぜん)とします ―― インストラクターに言われるがままに体操をさせられ、折り紙や、お絵描きや、しりとりをしている未来の自分に絶望します。

 組織や会社でどんなに偉くなっても、ベンチャー社長になって新しい価値を説いていても、論文や特許で新しい技術を発表しても、コラムなどで斬新な考え方を記載していても ―― 私たちの人生は、「折り紙」や「お絵描き」や「しりとり」で終わるのです。

 そのような未来の自分の姿から、「そんな風になった自分は迷惑に違いない」という思い込みが発生するのは自然なことです。また、そんな風になった自分を、世間にさらさなければならない、という恐怖もあると思います。

 ここに、介護というプロセスによる「迷惑」が完成する訳です。



 社会的には、年間10兆円規模の介護サービスは、国内の膨大な雇用を支え、国内GDPに貢献しています。

 下衆な言い方をすれば、このようなサービスは、日本人の溜め込んでいる貯蓄(キャッシュ)を、市場に放出するという効果もあります*)。介護サービスは将来の需要が予測できる、優良な債権でもあるのです。

 しかし、前述した通り、介護に関する「迷惑」という感情は、社会的な公共の迷惑というよりは、自発的で自罰的に自然に発現します。そして、問題は、このように発現した「迷惑」は対応する手段がないのです。

病床の父:「いつもすまないねえ」
看病の娘:「おとっつあん、それは言わない約束でしょ」

と言って看病している娘は「優しい」のではなく、「腹を立てている」と私は思っています。

  • 「いつもすまないねえ」と言えば、自分が「免責」されるとでも思っているのか ――
  • 私が欲しいのは「免責」ではなく、私をラクする具体的なソリューション(解決策)だ ――
  • ソリューションが出せないなら何も言わずに寝ていろ。自分を救済する為に、私を利用するな。「すまないねえ」しか言えないならだまっていろ ――

が、多分、本音だと思うのです。

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