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自作の「金融商品自動売買ツール」をGo言語で作ってみる「お金に愛されないエンジニア」のための新行動論(3)(7/9 ページ)

「老後のための投資」について、どうも“着火”(やる気に火がつくこと)しません。だとしたら、私が大好きな趣味の世界に、このテーマを持ち込むしかありません。というわけで、私は、大好きなシミュレーションを利用できる、「金融商品自動売買ツール」の構築を目指すことにしました。

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「孤独」と「お金」

 さて、本連載の「お金に愛されないエンジニア」は、老後の生活資金にメドがたっていない私(江端)の闘いの記録、という位置付けで行っているものですが、実は、私は、自分の老後に対して、「お金」以外に、あるいは、「お金」と連動して発動する可能性の高い、もう一つの心理的な問題に対して、大きな心配があるのです。

 ―― 「孤独」です。

 先ほどから、私は自分のことを、「人間嫌い」で、「組織嫌い」で、「ルール嫌い」と言っていますが、それでも、社会においては、他人に対して愛想よく振る舞うことのできる人間であると自負しています ―― 特に、職場では、上司や同僚に対して、愛想よく接しています。『戦略としての「愛想」』というテーマで、コラムを1本書けると確信できるレベルです*)

*)関連記事「若きエンジニアへのエール〜入社後5年間を生き残る、戦略としての「誠実」〜

 コロナ禍の外出自粛期間において、私は、自分が考える以上に「ぼっち耐性」ある、ということが分かってきましたが、私は「集団行動」と「ぼっち行動」のどちらも選択できる立場あったのです。

 娘(次女)は、そのようなぜいたくな選択ができる私を「そのような身の上で、『ぼっち』を名乗るとは、おこがましい」、と私を批判しています。

 しかし、次女の指摘は、正鵠を射ていると思います ―― 定年後の私が直面する「ぼっち」とは、「選択の余地のあるぜいたくなぼっちではなく、社会的関係をズタズタに切り裂かれ、社会とのアプローチを断絶される『絶対的かつ絶望的なぼっち』」 ―― 社会的ネットワークからの分離・孤立という意味での「孤独」だからです。



 「孤独」の問題は、かなり昔から認識されていたようです。近年の孤独問題は、1980年の新自由主義*)にさかのぼるという説が有力です。

*)新自由主義とは、簡単に言えば、「国家や組織による個人への介入を排して、個人の能力と価値観に強く依拠する自由な社会」であり、さらにざっくり言えば、(1)能力主義、(2)自己責任、(3)競争是認、(4)自力解決を、強いられる社会です。

 私(江端)流の言い方をすれば「私に関わるな。私の考え方は私のもの。その考え方に介入し、あるいはそれを妨げること(妨害など)は何人たりとも許さん」となります。

 しかし、これは、逆に、私(江端)への言い方にすれば、「お前(江端)のことは、お前(江端)のこと。甘えるな。自力でなんとかしろ。組織も国家も、個人としてのお前(江端)には関わらないぞ」と言われることにもなるわけです。

 この具体例は、「飲みニケーションの忌避」「社内運動会の中止」という分かりやすい形で、1990年〜2000年くらいに定着したと思います(最近は、この復古運動が展開されているようですが(筆者のブログ))。

 この孤独問題は、昨今の少子高齢化やデジタル化などに伴い、人々の社会的な関わり方にさまざまな変化が生じることで加速しました。そして、この問題を決定づけたのは、2020年に新型コロナウイルス感染症のパンデミック発生に伴う、社会的な接触の厳しい制限でした。

 あれ? この孤独問題、相当にヤバくね? と気が付き始めた、イギリスと日本国政府が動きました。イギリスでは2018年に「孤独担当相」が、日本でも2021年12月に内閣官房に「孤独・孤立対策担当室」が設立されています ―― ちなみに、私は、日本の担当室の話を知りませんでしたし、嫁さんは両方知りませんでした。

 ここで重要なことは、孤独が「それ自体が問題」であるだけでなく、孤独が社会全体を巻き込む、という問題であることなのです。

 以下は、私(江端)がまとめてみた、「孤独によって誘引されるであろう不幸」の一覧です。

 孤独の問題は、すぐに「高齢者」「老齢」「孤独死」という、シニアの問題に考えがちですが、実のところ孤独問題が最も深刻とされる年代は30歳代だったりします(後述)。

 ところが、私たちは、この孤独の問題だけではなく、あらゆる問題(心配)に対して、世代を越えて、その問題(心配)を共有し、協力して解決に向かうというモチベーションが発生しません。それは、それぞれの年代において、メインの問題がバラバラになるからです。

 シニアは、若い世代の課題を「理解」してはいるのですが、彼らには手を出しません。なぜなら、前提とする環境が違い過ぎるからです。

 前述した、新自由主義の考え方に加えて、ITリテラシー、そして、なにより自分たちの過去において、「就職、結婚、子育てに関して、ジジイたちやバアアたちが、いちいち口を出してきて、心底うっとうしかった」という、強烈なネガティブな思い出が、自分たちにフィードバックしてきて、若い世代へのアドバイス(“干渉”ともいう)に対しする、強いブレーキが働くからです。

 「今の若い人は、今の主流の方法で、好き勝手にやってください」 ―― という名の放置が、双方にとって一番ラクでもあるのです。まるで、同じ国内に、全く違うイデオロギー(孤独を含む)を持つ、複数の民族が存在しているかのような感じです。

 加えて、私たちの人生は、「孤独に向かうように設計されている」という事実があります。下記は、年齢を横軸として、私の主観にもとづく「私の友人の数の変化」を示したものです。

 現在の私は、「友人数”ゼロ”」を掲げていますが、これは、私の価値観だけでなく、私たちの人生は、友人を失い、孤独に向うように設計されているのです。

 私たちは、友人の”数”というものが、重要でないことを十分に知っていますが、これをティーンエィジャに語っても全く無駄ということも知っています。テーンエージャーにとって友人は通貨であり、友人が多いほど、価値のある人間(お金持ち)として認められます。

 これは『友達百人できるかな〜♪』というあの歌の中でも見られるように、保護者も、自分の子どもに、友人がいるのかどうかを病的に気にします。

 そして、子どもは子どもで、「陰キャ(昔で言うところのネクラ)」と見られることを恐れて、友人数を増やそうとします。そして、友人数の多い、いわゆる「陽キャ(ネアカ)」といわれる人物と交友関係となることを目指します。

 この傾向は、20代前半まで続き、友人の数は、SNSのフォロワー数(昔でいうところの年賀状の数)で、価値の大小が測られるようになります。フォロワー数を増やすために、いわゆる「バカッター」と呼ばれる者が登場していたことは、皆さんの記憶に新しいと思います。

 ところが、就職を機会に、そもそも「友人の数」というものが、『ヒマな時間の定量値』でもあることが理解されていきます。それどころか、むやみやたらに、友人が多いということが、社会でネガティブに取り扱われることがあることが分かってくると、「友人数ブーム」は冷やかに収束に向かいます

 さらに、社会人としての激務、新しい家族との人生が、これに拍車を掛けます。この辺から友人の必要性が、「人数より質」であるというパラダイムシフトや、自分の価値観中心の生き方へのシフトを経て、なにより、「お金が必要である」という生活によって、友人の数は減少の一途をたどります。

 そして、会社と自分の生活(“家族”を含む)のみが2大コミュニティーとして確立します、それ以外のものとの疎遠が加速し、現在の、友人”ゼロ”あるいは、それに近い状況が完成します。加えて、シニアになればなるほど、新規友人開拓の機会が失われていき、これを後押しすることになります。

 そして、会社と自分の生活(家族)を2大コミュニティーは、会社からの引退、子供の独立、そして伴侶との死別を経て、予定調和的に消滅し、ここに完全な孤独が完成するのです。

 まさに、私たちの人生は、「孤独に向かうように設計されている」と言えます。



 さて、次にお見せするアンケートは、前述した「孤独・孤立対策担当室」が、日本人の孤独の度合いを計測するのに使った、「UCLA孤独感尺度」というものです。最も高いのが80点で、44点以上で「孤独感が高い」、28点未満で「孤独感が低い」と判定するものだそうです。

 早速私も試してみました。

 80点を満点と考えると、江端の孤独度は70% ―― 日頃から「ぼっち至上主義」を唱えている私ですので、「孤独が強く出るだろう」と思ってはいたのですが、予想通り、ボーダーである44点は、軽く越えていました。

 ただ、この質問項目、ちょっと内容に疑義があります。

 このアンケートを私なりに分類したところ、(1)自分は他人の中になじんでいるか、(2)自分には頼れる人がいるか、(3)自分は他人と共通点はあるか、(4)自分は、自分として理解されているか、(5)自分は孤立しているか、(6)自分は外交的か、の6つの事項を、言葉を変えて聞いているだけ、という風に読めました。

 これをさらに、私なりにカテゴライズして、整理したものが以下の図です。

 ともあれ、孤独は、どこまでいっても主観的な感情であり、外部から観測する手段はありません。しかも、孤独は、自分のちょっとした環境の変化によって、一瞬で発生するものであり、それ故に有効な予防策や社会的施策も難しいです。

 私は、私の仮説『私(たち)の人生は、「孤独に向かうように設計されている」』を検証すべく、いろいろな資料を探していたのですが、どうも、この私の仮説、成り立たないらしいことが分かってきました。

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