字が見えない、声も聞こえない! シニア大学院生の受難:リタイア直前エンジニアの社会人大学漂流記(9-1)(1/3 ページ)
今回は、大学院生活で直面した「真の課題」について語ります。入学前から「かなり大変だろう」と覚悟してはいましたが、実際は想像よりも、はるかに大変だったのです……。理由の一つは、大学が、若者を「標準ユーザー」として作られた場所だということでした。
3年間の休載を経て戻ってきました。休載していた理由は、私はリタイア(定年退職)間際だったにもかかわらず、「MAS(マルチエージェントシミュレーション)」を研究すべく、社会人のまま大学院博士課程に突っ込んでいったからです。なぜ“そんなこと”になったのか――。そして私をそこまでさせた「MAS」とは何なのか。社会人大学院生の実態を赤裸々に語りつつ、MASを技術的に深掘りしていきます。
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入学して直面した「本当の問題」
私は ―― このシリーズの題目通り、定年直前になってから博士課程に入りました。で、博士号取得の2カ月後に退職となりました(現在、シニア採用中)。
社会人として会社で仕事を続けながら、大学院生として講義を受け、研究を行い、学会発表をして、論文を書く、という生活を始めたわけですが、入学前から、「まあ、かなり大変なことにはなるだろう」とは思っていました。
英語の論文を大量に読まなければならないでしょうし、数式にも付き合わなければならない。若いころならともかく、今さら新しい学問体系を頭に入れるというのも、簡単な話ではありません ―― ただ問題は、『そこ』でなかったのです。
―― 字が見えない、声が聞こえない。
いや、もちろん、制度上の意味で「視覚障害者」「聴覚障害者」というわけではありません。しかし大学の教室に座ってみると、「見えない」「聞こえない」という点では、私は確実にハンディを抱えていました。
一言で言えば「老眼」「難聴」という老化現象です。もう、これは、人類であれば、誰もが避けようのない「経年劣化」です。
……ふふふっ、せいぜい笑っていればいいですよ。
なぜ私が余裕しゃくしゃくで、こんなことを告白できるのかというと、あなたにも、例外なくやってくる経年劣化だからです。いずれ、あなたも、100均ショップで試した老眼鏡で、文字が鮮明に見えた時の、歓喜と絶望の両方の感情を思い知るのです。
まあ、それはさておき。
字が見えない!
まず、「字が見えない」ですが ―― これ、かなり深刻な問題でした。
大学院の講義や研究発表では、当然のようにPowerPointなどのスライドが使われます。そして、正直に言って、学生の発表スライドは、(社会人の)私から見れば「かなり出来が悪い」です(筆者のブログ)。
特に私が苦戦したのが、海外留学生の発表でした。英語で記載されていることを差し引いても、『分からん』のです。
理由は2つあります。
1つ目は、自分の研究に対する過大評価です。
そもそも、人間は自分以外のことに興味がない ―― ただし、私たちは、他人の醜聞(スキャンダル)には興味津々です。落ちていく他人は、相対的に自分の立ち位置を上げてくれるからです。
しかし、「研究」のように、自分の頭を使わないと理解できないものには、絶望的に興味がない。つまり、自分の研究なんざ、他人には「どーでもいい」のです。
ところが、その「どーでもいい」ものを全て説明しようとする。全ての情報をプレゼン資料に突っ込む。その結果、文字が小さくなる。
そして、その「どーでもいい研究」は、さらに意味不明となり、ますます見向きもされなくなる ―― 見事な悪循環の完成です。
2つ目は「自分の脳内状態を他人にも同期できていると思っている」という、想像力の欠如です。
研究者本人は、そのテーマについて何カ月、場合によっては何年も考え続けています。ですから、専門用語も、前提条件も、図表の意味も、「見れば分かる」状態になっています。
しかし、聞いている側は、その研究について、たった今、初めて聞かされています。
発表者にとっては「この図を見れば一目瞭然」であっても、聞き手にとっては、「まず、この横軸は何だ」「この色の違いは何だ」「そもそも何と何を比較しているんだ」というところから始まります。
ところが発表者は、その理解速度の差を考慮せず、自分が数カ月かけて理解した内容を、聞き手にも数十秒で理解できるものとして提示します。
その結果、1枚のスライドに、グラフ、表、数式、注釈、結論が全部入り、発表者だけが理解できる「完成された資料」が出来上がります。
もちろん、聴衆にとっては、「完成」どころか、「開始」すらしていません。
声が聞こえない!
さて、次に「声が聞こえない」ですが ―― これも、かなり深刻な問題でした。
私の聴力は年々劣化しています。ですから、もちろん、これは私の難聴の問題です。大学でも学会でも、私はできるだけ演壇に近い席を確保します。演者にこちらからにらみを利かせられるくらいの距離に陣取っていますが、それでも、聞こえない発表があります。
私が演壇のすぐ近くにいて聞こえないのであれば、教室の後ろにいる人には、多分もっと聞こえていないはずです。
つまり、
―― 「聞こえない」のは、私の聴力だけの責任ではない
と思うのです。
別に、大声で怒鳴れと言っているわけではありません。自分の研究を発表するときくらい、普段より少し大きな声を出す。語尾まできちんと発音する。マイクがあるなら、ちゃんとマイクに向かって話す。
それだけのことですが、これができていない発表者が、意外なほど多い。
恐らく発表者本人には、自分の声が普通に聞こえています。ですから、「自分の声は、当然、相手にも届いている」と思っているのでしょう。そして、これは、先ほどのスライドの話とまったく同じです。
自分には見えている。だから、相手にも見えていると思う。
自分には聞こえている。だから、相手にも聞こえていると思う。
しかし、プレゼンテーションというものは、発表者側で成立するものではありません。受け手に届いて、初めて成立するものです。
そもそも発表(プレゼンテーション)というものは、言ってみれば「プレゼント」なんですよ。
あなたは、そのプレゼントの中身を見せているつもりかもしれませんが、私には「見えません」し、「聞こえません」。 ―― つまり、プレゼントになっていない。
「プレゼント」は、少なくとも贈った相手に届かなければ意味がありません。その「プレゼント」が、ゼミの学生はともかく、指導教官にすら届かなかったら ―― あなたの卒業と学位は、マジでヤバいです(本当)。
ただ、私も、一方的に学生さんを批判するほどのプレゼンができているかというと ―― かなり怪しい。その辺りは私のブログを読んでください。
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