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メイドたちよ、“意識高い系”を現実世界に引き戻してやれ!江端さんのDIY奮闘記 EtherCATでホームセキュリティシステムを作る(最終回)(4/11 ページ)

「ご主人様とメイド」の例えで産業用ネットワーク「EtherCAT」の世界を紹介してきた本連載も、いよいよ最終回です。今回も、前回に引き続いて、EtherCATを開発したベッコフとEtherCAT Technology Groupの方々へのインタビューの模様をご紹介しつつ、「EtherCAT」への熱い想いで締めくくります。

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Q:EtherCATって、どうやって生まれてきたのですか

川野さん 1989年に、ベッコフが、“ライトバス”という製品をリリースしているのですが、ご存じですか

江端 ライト……? 単純な仕様で実装されている制御用のバス型通信ネットワーク・・・ですか?

川野さん いえ、“Light Bus”「光ファイバーを使用した高速フィールドバス」です。RS485の時代に、光ファイバーを使っていたんですよ。先進性もあり性能が高くユーザーの評判はすごくよかったらしいのです。この段階で、PCにI/Oつけて、フレームをバケツリレーして、リング構成にするという構想はこの段階で完成していたのです。

江端 その時代に、制御LANに光ファイバーを適用していたのですか? 先進的どころか、もはや前衛的でしょう。

川野さん ただ、結果として“Light Bus”はそれほど流行らなかったのです。

江端 なぜですか?

川野さん 仕様をクローズとしたため、現場のたくさんの機械をつなげることができなかったからですよ。情報系もそうですが、制御系も、どれだけ多くの機械(センサー、ロボット、モーター)をつなげられるか、で価値が決まります。その当時、私たちは、まだ「オープン」の必要性を理解できていなかったのです。

 当時は、マスタ(ご主人様)だけでなく、スレーブ(メイド)も、そしてモーターやロボットやセンサーも、全部をセット販売するビジネスが当たり前でした。

 ベッコフだけでなく、どのベンダーにとっても、「メイドに転職の自由を与えず、屋敷に縛りつけて、ご主人様に一生ご奉仕させる」という営業戦略 ――「クローズ戦略」が当たり前だったのです。

川野さん 2001年くらいに、イーサネットを制御LANとして使おう、の機運が高まってきたんです。最初は、PROFINET、EtherNet/IPだったかな。その後、EtherCATやCC-Link IEなど次々と制御LANの仕様が登場しているんですが。

 ハンスがドイツにある自宅の別荘に、精鋭のエンジニア達を集めてブレストをやっていた時に、不意に、ハンスが、
イーサネットNICのTXとRXを使えば、Light Busと同じことができるんじゃないか」と言いながら、テーブルの上の紙ナプキンの上に最初のEtherCATの構成図を描いた ―― という逸話があります。

江端 おお! なんか、ハリウッド映画みたい!

 ところが、この「クローズ戦略」は、時代の流れとともに、行き詰まり始めます。

 「クローズ戦略」を続けている限り、ベッコフは、世の中の全種類のスレーブ(メイド)を準備して、製造販売し続けなければならないことになるからです。

 ロボット1つをとってみても、回転ずし屋用のロボット用のスレーブ、ヨーグルトカップ製造用のロボットのスレーブ、自動車の板金加工ロボット用のスレーブを、全部準備しなければなりません。

 加えて、長期間にわたってそのスレーブのメンテナンスを続けなればならず、故障時に備えて、スレーブも確保しなければならず、そして、最大の問題は、「新しいロボットを導入したい」とおっしゃる顧客に対して、「ベッコフの“Light Bus”では対応できません」と答えるしかなくなるからです。

川野さん “Light Bus”の技術がどんなに優れていたとしても、将来のシステムの稼働、拡張に不安の残る「クローズ」な仕様の制御LANを、顧客は選ばない。

 ―― ベッコフ社一社で、全てのマスタ、全てのスレーブ、全てのデバイスを賄うという戦略は破綻する。

 「オープンがとても大切で、どんなに良い技術でもあっても、使ってもらわなければビジネスにならない」と、私たちは“Light Bus”から学んだのです。

 ここに、EtherCATのオープン戦略が始まったのです。

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