意味不明の「時短」は、“ツンデレ政府”のSOSなのか:世界を「数字」で回してみよう(45) 働き方改革(4)(6/11 ページ)
「働き方改革」において、「生産性」に並ぶもう1つの“代表選手”が「時短」、つまり「労働時間の短縮」ではないでしょうか。長時間労働の問題は今に始まったことではありませんが、どうしても日本では「時短」がかなわないのです。それは、なぜなのでしょうか。
「成果主義」でまかり通っている奇妙な仮説
さて、この「時短」の話題の中には、どういう訳か「成果主義」という考え方があります。成果主義では、「成果」ベースの労働をすれば、労働時間が短縮されるはずである ―― という奇妙な仮説がまかり通っているのです。
しかし、この「成果主義」についても ―― この連載始まってから、全てのテーマと同様に ―― 私には、その内容が分からないのです。
成果主義と言うからには、労働を成果で評価しなければならないはずであり、それは、厳密に数値で表現されなければならないハズです。
逆に言えば、どんなに長い労働をしようとも、どんなにつらい労働をしようとも、それが利益に反映されなければ、その労働の評価として加算してはなりません。
こんな計算が、現実にできるわけがありません。ですから、現状の成果主義とは、その勤務している部門の評価項目(例 特許明細書2本/年、研究報告書1本/年、ニュースリリース1回/年)のようなものにならざるを得ないのです。
それでも、成果が利益(数値)だけを取り扱うのであれば、絶対に不可能であるとはいえませんが、実際には、利益とは、ブランド価値とか、人脈とか、管理能力とか、とにかく、“基本的に原価計算できない何か”から生み出されていることがほとんどです。
加えて、成果主義では、成果になるかどうかは分からない以上、成果となる可能性のある仕事の全てに労力を注がねばなりません。これは無理を承知で、たくさんの仕事に手を出さざるを得ないということです。
これだけの事実でも、「成果」ベースの労働をすれば、労働時間が短縮されるなどということが成立しないことは、明白です。
長時間労働を「肯定する」ロジックを考えてみる
さて、ここまでは「時短が生産性向上になる」という話が、かなり眉唾(まゆつば)モノであるという話をしましたが、ここからは、今回のテーマ「時短」のアンチテーゼとして「長時間労働を肯定するロジック」を会社と個人の観点から検討してみたいと思います。
最初に、会社と労働者の両者にとっての長時間労働の肯定ロジックを、片っ端から上げてみました。
まず、会社のいう「時短」に対する本気度が、労働者側には、いまひとつ信じられません。
「時短しなければ、わが社は倒産する! なぜなら、×××であるからである!!」の、"×××"の部分が説明されていないからです。
前述した通り、従業員を過労死させても会社は潰れていないのです(株価は、一時的に下がるでしょうが、半年もすれば、世間は事件をキレイさっぱりに忘れます)。
それに、わが国の国民の特徴として「仕事」を理由とすれば、飲み会や付き合いをドタキャンしても許されることになっており、そして、家事や育児や介護などの『やりたくないこと』から都合よく逃げることができます。
ところが、育児や介護の負担に比べれば、会社の仕事など、塵芥(ごみあくた)のごときものです。
私は断言しますが、世界で最もつらい仕事は誰がなんと言おうが、絶対にそれは「育児」です。上司の辛らつな叱咤(しった)に胃を痛めようと、見通しの立たないプロジェクトに途方にくれようとも、自分の望んだ時間にコーヒー飲めるし、煙草も吸える。憂さ晴らしに酒を飲める身分で、何が「仕事がつらい」だ、ばか者。甘えるんじゃない。夜、寝られるだけでも感謝しろ。
(著者ブログ「江端さんのひとりごと」、「子供たちを責めないで」より抜粋)
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