高齢者介護 〜医療の進歩の代償なのか:世界を「数字」で回してみよう(51) 働き方改革(10)(4/10 ページ)
今回から数回にわたり、働き方改革における介護を取り上げます。突然発生し、継続し、解決もせず、被介護者の死をもってのみしか、完了しない高齢者介護。まずは、私自身の体験に基づく、高齢者介護の実態について語ります。
「高齢者介護」は、いつから存在したのか
さて、今回、古来からの我が国の平均寿命を調べてみたのですが、ざっくりこんな感じになっているようです。古来、日本人の平均寿命は15〜35歳程度だったのです。
しかし、「平均寿命15歳」といわれても、現代の私たちのライフパターンである「教育・就職・結婚・出産育児・退職」という認識では、その平均寿命のイメージには、到底たどりつけません。
ところが、現在の日本人の平均寿命は83歳です。日本史上、一度も体験したことがない、特異な現象が現われているのです。
この原因を探ってみると、古来、私たち人類を、1カ月足らずの期間で、数万から数十万(下手すると、1つの国家を消滅させるような)のオーダーで殺害する、治癒手段のない病気が、20世紀(特に終戦後)になって、各種の特効薬によってたたきつぶされてきたことが挙げられます。
1945年前までは、ある地域で1人発病すれば、その地域全体が病人で溢れかえり、打つ手もなく、患者の自力回復(と免疫力の獲得)を、神に祈ることしかできない病気が、たくさんありました。
それに対して、対抗する手段を得たわれわれは、もう致死率の高い流行性の病で死ぬことができなくなったということです。
さて、この事実を踏まえた上で、今回、私は、この平均寿命の爆発的な増加が発生する1945年以前に関する、各種の文献を調べてみました。しかし、「高齢者介護」に関する文献を見つけることができませんでした。
正確に言うと、お上(政府)が唱える「命令(法律)」は、いくつか見つけることができたのですが、それは基本的に「家制度」に基づく、自力救済システムの奨励(掛け声)であって、現在のような法律やシステムとしての、「高齢者介護サービス」の体を成していないのです。しかも、その「掛け声」の数自体が少ない*)。
*)聖徳太子の四天王寺の「四箇院」、令義解(養老律令(718年)の注釈書)による近親者による老人・障害者・孤児の保護、江戸幕府による小石川療養所、教育勅語の「親に孝養をつくしましょう」などなど。
一方、そのような「高齢者介護サービス」を受ける側の記録は絶無です。
市井(しせい)の民衆の記録が残りにくいのは仕方がない、とも考えられるのですが、飢饉、台風、火災、噴火の記録(特に江戸時代)*1)や、日常生活の記録*2)などが、相当大量に残っていることを考えると、このバランスの悪さは、どうにも座りが悪いです。
*1)『日本書記』『今昔物語』『神明鏡』『徳川実紀』『天明凶歳日記』など
*2)『古事記』『枕草子』『方丈記』『徒然草』など
ここに「大量虐殺型の疾病の存在」と「高齢者介護サービスの不在」から、前述の仮説が生まれます ―― 高齢者介護という概念は、1945年より前には、存在しなかった ―― です。
1945年の時点で、治療方が分からなかった病気について、もう少し調べてみました。病気の発生から経緯、そして死に至るまでの期間です。
ウイルス性疾患などの場合、介護うんぬんの前に、苦しむ患者を、打つ手なく、あっという間に死んでいくのを、見守るしかなかったようです。
脚気や結核についても、上記のような超短期で死に至らなくとも、それほど長い期間を生き延びることはできなかったと思います。当時は、胃ろうによる高カロリー消化態経腸栄養剤や点滴などによる、外部からの強制的なエネルギー補給手段がなかったからです。
そして、前述の通り、現在とは違って、当時の国家(政府)は、介護に関しては「自力救済」「自助努力」を前提として、法律や制度でのサポートをしていません。
民間においても、現在の病院の病棟が日本で初めて導入されたのは、明治(1873年、順天堂が下谷練塀町に開院)に入ってからのことです(一般人が入院できたかは不明)し、「病気の治癒」ではなく「高齢者介護」の目的で入院できたとは思えません。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.