リカレント教育【前編】 三角関数不要論と個性の壊し方:世界を「数字」で回してみよう(59) 働き方改革(18)(2/8 ページ)
今回から前後編の2回に分けて、働き方改革の「教育」、具体的には「リカレント教育」を取り上げます。度々浮上する“三角関数不要論”や、学校教育の歴史を振り返ると、現代の学校教育の“意図”が見えてきます。そしてそれは、リカレント教育に対する大いなる違和感へとつながっていくのです。
リカレント教育とは、「独りぼっちの戦争」だ
こんにちは、江端智一です。
今回と次回の2回、政府が主導する「働き方改革」の項目の一つである、「教育」に関して、お話していきたいと思います。
「教育」といっても、義務教育(小中学校)、高等教育(高校)、高等教育卒業後の大学教育のいわゆる「学校教育」の話ではなく、「働き方改革」の中で語られる教育です。若々しく、苦悩に満ちながらも、若々しく、真っすぐな、「青春時代の学校教育」ではありません。
私たちが生き残るための、手段としての、道具としての、ドロドロとした私益にまみれた、私たち大人の教育 ――「リカレント教育」です。
では、始めに「リカレント教育」が登場してきた背景について考えていきたいと思います。
ほんの40〜50年ほど前には、社会問題は「国家(政府)」に問題解決の責任があり、その解決能力のない政府はつぶしても構わん、という考え方が ―― その是非はともあれ ―― 日常的にあったのです。
それは、『社会問題は、その政府を倒してしまえば、うまく転がっていく』 という、相当に無計画、楽観的で、乱暴な考え方*)」でした。
*)「暴力革命」というワードで検索してみてください。
なぜ、このような考え方が支持され、そして現実に実行されていたかというと、一言で言うと、その当時は、逼迫(ひっぱく)した社会問題がゴロゴロと存在していたからです。
例えば、太平洋戦争終戦直後(1945年〜)の日本には「食料がない」「職がない」「住む家がない」という人が多く存在していました。「今日この問題を解決しないと、明日は死んでいるかもしれない」というような切羽つまった社会問題が、国民全員で共有しやすい状況にあったのです。
もちろん、現在も、社会問題は山ほどあります。例えば、この「働き方改革」で上げられている下記の図の項目は、正に今、現在進行形で進んでいる日本の社会問題そのものといっても良いでしょう。
しかしながら、これらの問題は「明日死んでいるかもしれない」という程の切迫感はありません。例えば、これらの問題に全てにかかわる少子化の問題は、私たち日本人を滅亡させかねない問題ですが、少なくとも、それは「明日」ではないですし、「その政府を倒してしまえば、うまく転がっていく」ような問題ではないことも明白です。
また、上記の絵に示すように、この問題は、ざっくり11項目あると言えますが、これらの問題は複雑に絡みあったパレート最適*)になっています。例えば「生産性向上」と「時間外労働」は、普通に考えればパレート最適です。
*)ある状況を改善させるためには、他の状況を悪化させざるを得ないという状態。
また、以前、私は「少子化は、国家にとって最悪のシナリオではあるが、個々の国民にとっては当然の最適戦略である」という事実を、数値を使った机上シミュレーションで明らかにしました(関連記事:「合理的な行動が待機児童問題を招く? 現代社会を映す負のループ」)。つまり、少子化問題とは、国家(公益)と個人(私益)の間において、完全なパレート最適なのです。
つまるところ、現在の私たちは「政府を倒したところで、この個人的などん詰まりから抜け出すことはできない」という状況にまで追い込まれていると言えるのです。
そこで登場するのが「教育」です。 しかし、ここでいう「教育」とは ――
社会問題のど真ん中で、夢なく、希望なく、何者かに糸繰られつつ、どん詰まりに追い込まれた状態にある私たちに対して、
『"皆で一緒に幸せに"などと、甘ったれたこと言ってんじゃねーよ』
『どん詰まりから抜けたければ、一人で闘え』
と、冷たく突き放す ―― 「独りぼっちの戦争」のことなのです。
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