検索
連載

STEMを取り入れた「夏休みの自由研究」型パッケージ教育のすすめ踊るバズワード 〜Behind the Buzzword(15)STEM教育(3)(7/8 ページ)

今回は、STEMを取り入れた新しい教育を提案します。併せて、プログラミング教育×STEM教育の方程式から導き出せる、「理系日本人補完計画」という壮大な妄想(?)を語ってみます。

Share
Tweet
LINE
Hatena

料理だって「STEM」である

 あらためて考えてみますと、STEMは、別段「何か特別なこと」ではありません ―― というか、物事は大抵のことがSTEMで成立しています。

 例えば、次女は「菓子作り」を趣味としているのですが、ことしのバレンタインデーでは、『マカロン』を巡って、大層お怒りのようでした。(正直、私も良く知らないのですが)、マカロンというお菓子は、その難しさにおいて、他の菓子とは比較にならないものだそうです。

 マカロンを最高の状態で焼き上げるためには、材料の量、混合比、燃焼温度、放熱時間、外気温や湿度、その他もろもろの要因が完成を左右し、さらに、それらの要因が、独立変数でない ――変数どうしが影響し合うということで、つまるところ、最適解が「線形問題」でとして解くことができない、つまり、

―― 手作りマカロンは、数学で言うところの「NP困難問題」である

ということです。

 しかるに、『バレンタインに「手作りマカロン」を平気で要求してくる、あの男は馬鹿か?』と、娘は、自分の彼氏を罵倒しまくっていました。

 このように、「手作りマカロン」は、高度な数学(Math)であり、忠実なレシピを必要とする技術(Technology)であり、均一の同じ味のマカロンを作るという意味では製造工学(Engineering)で、物質に水溶物を加えて粘性物に変化させて、火力等で燃焼するプロセスは、立派な科学(Science)です ―― つまり、"マカロンはSTEM"なのです。

 そもそも、料理のレシピというものは、「プログラム」です。そのプログラム通りに作れば、基本的に、いつでも、どこでも、誰でも、おおむね同じ料理を製造できるというものです ―― プログラムが、どのスマホでも、どのPCでも同じように動くように。

 私は、結婚前の花婿修行として、市民会館で開催されていた『男の料理教室』なるものに通っていました。そこで提供されているレシピの一つが、これでした(20年以上も前のフォルダファイルから取り出してきました)。

 今となっては、あまり珍しくないフローチャートで記載された料理のレシピですが、当時、その「分かりやすさ」に感動したのを覚えています。

 料理とは、複数の処理を同時並行に行う工学的処理です。なのに、今なお料理のレシピが、平文だけで記載されているという、その野蛮さに、私は腹を立てています。

 しかも、料理というのは、時系列的に化学的変化を続けていきますし、また、調味料は厳密に計測しないと、料理の味を劇的に変えてしまうことがあります(私は、"塩"でよく失敗しました)。

 しかも、料理のレシピでは、初出の用語を未定義で平気で使います。

 "適当な大きさ"、"塩、少々"、"ひとくち大"、"さっと湯通し"、"ひとつまみ"、"斜め切り"、"味を整える"、 ―― こういう表現の多くが、多くの人間(理系出身者に多いと思う)から、料理を作るという気力を失わせているように思われます。これは、我が国の「理系嫌い」を生み出すプロセスとも、酷似していると思います。



 あと蛇足ですが、「調理」というのは、誰が何と言おうとも「工学(エンジニアリング)」であり、完成した料理は「完成したシステム」です ―― が、どんなに言葉と時間を尽くして説明しても、嫁さんと娘は、これを認めません ―― 『飯がまずくなるから』だそうです。

 本質を正しく理解し、それを表現する日本人を量産するためにも、「プログラミング教育」と「STEM教育」は必要だと思います。

これは「テキシコー」です

 ここまでを読み終えた後輩がコメントを突っ込んできたので、その話も追記しておきます。

後輩:「江端さんは、相変わらず「『プログラミング的思考』が分からない」と繰り返していますが、これを見れば、一目瞭然です。「テキシコー」です」

 テキシコーとは、「コンピュータを使わずにプログラミング的思考(てきしこう→テキシコー)を育む」というNHKの教育番組です。

 「とりあえず、ガタガタ言わずに、これを全部見た後で、語ってください」と、後輩に言われたので、一応全部視聴しました ―― なるほど、「プログラミングを行わないプログラム」というものが理解できました。皆さんにも、第一回目だけでも良いので、視聴してみてください。

 ただなぁ……この番組で『プログラミング的思考が理解できる』としても、『プログラミング的思考が使えるようになる』とは、別の問題だよな、とも思いました。もっとも、それをNHKの教育番組に期待するのは無茶であることは、分かっていますが。

 私としては、この10回の番組を、100回見ても、1000回見ても、『テキシコー使いになれる』とは思えない ―― 多分、私なら「楽しいな」と続けて見続けて終わるだけだろう、と思います*)

*)ちょっと悪意を込めていうと、『プログラミングを自由自在に操れる人が、プログラミング抜きでプログラムを語れ、と命じられたら、多分、こういう番組を作るだろう』とも思いました。

 多分、小学校、中学校、高校の中で、子どもたちが、この『テキシコー』を発動する場面は、

(1)文化祭や運動会を3日前に控えて、いろいろなところから問題が上がってきて、スケジュールが絶望的な状態になっている(そして、顧問の教諭がクソの役にも立たない)生徒会や実行委員会の役員たち
(2)修学旅行の班決めを行うに際して、どの班にも受け入れてもらえないために、リア充たちへの懐柔や根回しをしなければならなかった(私のような)陰キャラ学生
(3)既に、翌朝の試験開始まで10時間という時間を切り、3教科の勉強をしなければならない、一夜漬けを覚悟した(「赤点回避」のみにロックオンした)成績不良生徒

 これらは、全て『かつての私』のことですが ―― 追い詰められた最後の段階で発動するものであり、大抵の場合は、発動に失敗します。そもそも、「テキシコー」が発動する場面なんて、子どもの日常にあるかな? と思うんです。

 だから、私は、子どもたちが、そのような「テキシコー」が発動できる場面は、せいぜい、定期テストか、入学試験の問題の中の、仮想の世界にしか作れない、と思うのです ―― もっとも、大人になれば、できるだけ手を抜いて、多くの仕事を短時間でさばく必要がありますので、「テキシコー」は重要になってくると思います。

 そのように考えればNHKの教育番組で、「テキシコー」を見ておくだけでも十分かもしれませんが ―― 私は、プログラミング的思考を理解するには、プログラムやツールを直接使った方が、てっとり早いように思えるのです。

 「陰湿な人工知能 〜「ハズレ」の中から「マシな奴」を選ぶ」の記事にも書いた、

―― 「100冊の人工知能の本を読んでも時間の無駄です。最もてっとり早いのは、100行のプログラムを自分で書くことです」

は、プログラミング的思考についても同じである、と、私は思っています。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

ページトップに戻る