「お金がなくてもそこそこ幸せになれるのか」を宗教と幸福感から真剣に解析してみる:「お金に愛されないエンジニア」のための新行動論(10)(2/9 ページ)
今回は、「なぜ、カルトの信者はあんなに幸せそうなのか」という疑問に端を発して、「お金がなくてもそこそこ幸せになれるのか」を宗教と幸福感から真剣に解析してみました。
お金がなくても、そこそこ幸せになれる方法はないのか
こんにちは、江端智一です。
今回は、お金に愛されないエンジニアである私が、「お金がなくても、そこそこ幸せになれる方法はないか」、という観点から考えてみました。
そもそも、私は、『お金が大好き』というわけではありません。私にとって、お金はツール(道具)です。前述の通り、『私の老後はあまり明るくない』という不安があるからこそ、その不安を払拭するために、ツールを準備しておきたいというモチベーションで、この連載の最初の方は、投資やら年金やらを調べていたのです。
しかし、私としては、その不安を払拭するものが、お金以外のツールであっても全く構いません。ただ私は、お金以外のツールが思い付かないのです。
そのような状況で、私がふと思ったことが、「なぜ、世界統一家庭連合(旧称統一教会)の信者は、あんなに『幸せ』そうに見えるのか?」ということです ―― はっきり言えば、「なぜ、あんなにも世間とズレていて、自信タップリにしていられるのか?」という素朴な疑問です。
高額献金、霊感商法、詐欺的教団勧誘、出産前養子縁組(筆者のブログ)、2世信者問題 ―― どう考えても、反社会的で反道徳的としか思われない行為のラインアップと言えましょう。
それ以外でも、地下鉄サリン事件で27人を殺害したオウム真理教は、テロの計画と実行を行った集団の幹部13人の死刑が執行された後も、後継の「アレフ」「ひかりの輪」で、絶賛活動継続中です ―― はっきり言って私には、理解不能で不快です。
この話をすると、『ヤツらは「幸せ」なんだよ、ヤツらなりに』と、一言で片付けられますが、私は納得できません。
もし、『ヤツらが「幸せ」』が肯定されるのであれば、品行方正(私(江端)のことです)で、遵法精神にあふれ(私のことです)、社会の不正に怒り(私のことです)、ロジックと数字で世界の真実に近づこうとする市井のサラリーマン研究員(私のことです)が、老後の不安におびえ、「幸せ」を実感できないとは、どういうことなのか?
私は納得できないのです。皆さんだって、そう思いませんか? あんな奴らが幸せで、私たち善良な市民が不幸せであるというのは、どう考えても理不尽としか思えません。
そこで、今回私は、私自身を説得するために、「幸せ」とは何かについて、最新の研究を調べまくってみました。今回は、そのお話をしたいと思います。
最近よく聞く「ウェルビーイング」って何?
最近、「ウェルビーイング(Well-Being)」という用語が頻繁に登場するようになりました。これは「ハピネス(Happiness:幸福)」とか、「サティスファクション(Satisfaction:満足)」とは、少々異なった概念です。
ウェルビーイングは、「人生における総合的な幸せ(というか、『良い状態』)が継続している状態」というイメージです。一方、ハピネスというのは、「感情的かつ一時的に発生した正の感情」、という感じです。これに対して、サティスファクションというのは、「不平不満のない状態」であり、ウェルビーイングの一つの要素と言えそうです。
さて、ウェルビーイングもハピネスも、日本語では「幸福感/幸福」と翻訳されます。
そこで今回のコラムでは、「身体的、精神的、社会的に幸福で満された状態が継続するもの」である「ウェルビーイング」を、「幸福感」と訳して取り扱うものとします。
今回、引用させて頂いた資料は、“Subjective well-being related to satisfaction with daily travel(日常的な移動の満足度に関連する主観的な幸福感)”(参照)です。
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