「お金がなくてもそこそこ幸せになれるのか」を宗教と幸福感から真剣に解析してみる:「お金に愛されないエンジニア」のための新行動論(10)(7/9 ページ)
今回は、「なぜ、カルトの信者はあんなに幸せそうなのか」という疑問に端を発して、「お金がなくてもそこそこ幸せになれるのか」を宗教と幸福感から真剣に解析してみました。
宗教とウェルビーイング
さて、この話を、カルト宗教に特化して論じるのは、私の本意ではありません。ここは、宗教一般についてのウェルビーイングについても、いろいろと論じてみたいと思います。
ただ、宗教におけるウェルビーイングは、信仰心によってもたらされるものもありますが、日々の生活の中で発生したウェルビーイングの欠損を補う(親しい人の喪失感をやわらげる、など)、という役割もあるようです。
また、宗教によって幸福感を感じやすい人が、中高年に多いというのは、実は逆で、中高年になると宗教に興味を持ち出す人が多くなるからではないか、と考えています。
若い方には分からないと思いますが、親の死などの他に、同世代の芸能人の逝去が「立て続けに」報じられると、『自分もカウントダウンに入った』ことを実感できるようになるものです。
では次に、東アジア(日本を含む)宗教のウェルビーイングの特徴を挙げてみます。
東アジアにおいては、日本以外の国においても、宗教がその国の国民の生活、習慣、道徳にゆるやかに溶け込んで、日常生活の基盤として、無意識的に機能している、という傾向があるようです。
まあ、一言で言えば ―― 真剣に信仰活動すると疲れる(ストレスがたまる)ということのようです(「不幸せ」になるわけではないようですが)。「苦しい時の神頼み」ということわざは、多分、1日5回も神に祈りをささげる習慣のある国(宗教)では、とんでもない不道徳でしょう。
また、日本では、「信仰心が厚い人ほど尊敬される」という文化はないようです。それについて、日米で比較したものが、次の表になります。
米国では、宗教が幸福を構成する要素の一つに入っていますが、日本では、そもそも、項目として入っていませんし、信仰者は幸福である、という考えすらありません。
その一方で、ちょっと興味深いのが、「神さま」の把握の仕方については、双方共通であるという点です。
日本も米国も、「神さま」を、人間と同じ形をし、人間と同じ思考形態を持つ超越者と見なすことで、幸福感を高めているということです。神さまを「裁判所」や「人間を審判する装置」と見てしまうと、「気持ちが萎(な)える」ようです。
さて、ここまでは、宗教が与えてくれるウェルビーイングの話でしたが、そもそも、ウェルビーイングの観点から、宗教は、どのような客層(信者)をターゲットとするのかを調べてみました。
宗教の信者になることは比較的簡単ですが、恵まれた生活を送り、かつ、それに満足している人が、熱心な信者になることは、レアケースなのです。
そもそも、そのような人は、宗教と無関係に良好なウェルビーイングを持っているはずです。それゆえ、良好なウェルビーイングを持っていなかった人が、それを宗教活動で担保したい(穴埋めしたい)と考えて行動することは、自然な行為だと思います。
そのような、良好なウェルビーイングを持っていない人に対する宗教の役割は上記に記載したように、「自分のウェルビーイングに気付かせる」ことや、「他利的行為(ボランティア)などで、ウェルビーイングを良い状態に導く」などもあります。
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