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定年がうっすら見えてきたエンジニアが突き付けられた「お金がない」という現実「お金に愛されないエンジニア」のための新行動論(1)(2/8 ページ)

今回のテーマは、すばり「お金」です。定年が射程に入ってきた私が、あらためて気づいたのは、「お金がない」という現実でした。2019年には「老後2000万円問題」が物議をかもし、基礎年金問題への根本的な解決も見いだせない中、もはや最後に頼れるのは「自分」しかいません。正直、“英語に愛され”なくても生きていくことはできますが、“お金に愛されない”ことは命に関わります。本シリーズでは、“英語に愛されないエンジニア”が、本気でお金と向き合い、“お金に愛されるエンジニア”を目指します。

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あらためて気付く。「お金がない」

 まあ恐らく、私は定年後に、会社からポイっと放り出されることになるのでしょう。まあ、それは仕方がないこととして、私はこの段階で、あらためて「お金がない」という現実に気が付きました。一言で言えば、収入が断たれた場合、今の生活水準を維持したまま喰いつなごうとしたら、”3カ月と持たない”という事実です。

 この「お金がない」も、前述の「定年」と同じです。心のどこかで「なんとかなる」と思っていたような気がします。

 私は今まで、これだけ悲惨な将来の日本(少子高齢、年金、介護、雇用、自殺、国際化、教育、その他いろいろ)について計算しつくした人間ですが、「大局を計算できても、自分自身を計算するのは恐ろしい」のです。

 それは、私がTOEICの受験を忌避し続けてきた心理にも、よく現われています*)。社会や政治を数字で追いこむことはできても、自分を数値で評価するのは、嫌なものなのです ―― そして、その結果が、今のこの有りさまです。

*)関連記事:「TOEICを斬る(前編) 〜悪魔のような試験は、誰が生み出したのか〜

 定年によって収入が途絶えても、家のローンは続き、次女の大学費用を捻出しなければなりません。

 それ以上に、私は、これからも、このようなブログを書き続けられるだけの「ささやかな生活」を維持して、電気代や食事代や書籍代やパーツ代(ラズパイの部品や、PCの周辺装置の代金)を、心配することなく生きていきたいのです。

 しかし、定年後を考えると、現在の生活の質を変えることなく生活を維持するのは、難しそうです。ですから、定年後、どんな仕事もやるつもりではあります。私と同じように考えている日本人が、結構多いことは、以下のデータからも明らかです。

 私は、(1)ノルマや納期のない気楽なプログラミングと、(2)好きなことをコラムとして執筆して寄稿し続けることができるような、今の生活を続けたいのですが ―― ぶっちゃけ、無理そうです。自分のやりたいことだけで生きていけるほど、この世の中は甘くないのです。

 人生は、自分の「やりたくないこと」と「やりたいこと」の、組み合わせで運用しなければなりません。そのためには、「やりたくないこと」の中に、「やりたいこと」を混在させる、あるいは、その逆を仕掛けていく工夫が必要なのです。



 こんにちは。江端智一です。今回から、新連載「「お金に愛されないエンジニア」のための新行動論」を始めたいと思います。

 このシリーズでは、『どんなに一生懸命英語を勉強しても、英語に愛されない者は、何をしても愛されない』というあのシリーズと同じ路線を踏襲し*)、お金に愛されないエンジニアが、知識ゼロの状態から、トライアンドエラーで「お金」を試していくという『ライブ配信型コラム』を行っていきたいと思います。

*)関連記事:「英語に愛されない者は何をしても愛されない、という出発点

 つまり、裏を返せば、今現在の私は、お金に関する知識もなければ経験もない、ということです。

 いずれしても、今回のコラムで、私は1円もお金を動かしていませんが、最終的には、EE Times Japanから、これまで頂いた報酬(原稿料)を、全額突っ込むくらいの気概で取り組んでいきたいと思っています。

 素人の投資は、プロのカモ ―― は分かっています。そして、そのリアルもかなり知っているつもりです(例えば、ビットコイン*)などで)。加えて、私は、お金に関して「石橋をたたいて、たたき壊す」というくらい臆病です。

*)関連記事:「ビットコインの正体 〜電力と計算資源を消費するだけの“旗取りゲーム”」の後半

 できれば、投資や投機などには関わることなく、一生を終えたいと思ってきましたし、今でも、そう思っています。

 しかし、今の私には(そして、今の日本では)、そのような「イヤだ、キライだ、やりたくない」は通用しない世界になりつつあるようです ――これについても、この連載で明らかにしていきたいと思っています。

 第1回の今回は、この連載に至った背景を、ざっくばらんにお話していきたいと思います。本格的なアクション(投資の商品、決算書の読み方、財務諸表のプログラミングによる分析方法、等)については、次回以降から始める予定ですので、本日は気楽に読んで頂きたいと思います。

「株式会社“日本”」の業績を考えてみる

 まず、私は「江端の定年後」という観点から、お金について真剣に考え始めました ―― ここで大切なのは、「江端の定年後」のことだけであり、その他のこと(他人の人生、世界経済、SDGs、格差社会、貧困家庭等々)は、「どーでもいい」ということです。正直、世界がどうなろうが、私の知ったことではありません。

 今回は、これらのいくつかについて、私が手当たり次第に調べたことを、語らせて頂きたいと思います。

 まず、最初は「日本が世界第3位の経済大国」であるという話から始めていきたいと思います。

 太平洋戦争の敗戦のどん底から、奇跡の復興を遂げて、米国に次ぐ、世界第2位の経済大国になった奇跡の国 ―― これが、私たちシニアが何度も繰返し教えられてきた、我が国定番のサクセスストーリーです。

 2009年に中国にGDP(国民総生産)第2位の座を譲り渡しましたが、現在も世界第3位の地位にはいます。ちなみに、GDPついては、こちらの記事「誰も知らない「生産性向上」の正体 〜“人間抜き”でも経済は成長?」に、「カツ丼」で理解するGDPの解説があります。

 しかし、我が国のGDPが世界第3位であろうとも、個人当たりの所得は世界31位、個人収入は、米国の平均給与の60%未満です。以下に私が作った衝撃的なグラフと計算をご覧頂きたいと思います。

 まず、2020年と2001年のGDPの単純比率は、日本ではわずか16%(116%-100%)の上昇に滞っていますが、米国やドイツは約2倍(97,98%)、中国に至っては10倍(999%)になっています。

 日本のGDPの平均増加率を1とした場合、ドイツは2.5倍、米国は18倍、中国に至っては、22.5倍です。

 日本の会社の純資産の成長率で言えば、米国とドイツは”トヨタ自動車”、中国の成長率に匹敵する日本企業は見つけられませんでした(規模感で言えば、”ソフトバンク”くらい?)。

 比して、日本の成長率を俯瞰して眺めると、『学校の近くにある、老夫婦が経営している文房具屋』とか、『高齢者しか住んでいない公営住宅の中にあるソバ屋』と同じような感じです。

 はっきりいって、20年間で、成長率年間1%などというような会社が、上場を続けるのは難しいでしょうし、そんな会社は株主総会において全会一致で経営陣全員の退陣が可決されるか、良くて買収、悪ければ倒産です。

 いっそのこと、日本政府は、中国の国債を大量購入した方がマシなんじゃないか、と思えるほどです(もちろん、そんなことはできませんが)。

 株式会社”日本国”で、こんなふざけた経営を続けているのは一体どこの誰だ? と文句を言いたいです。

 私のような民間企業に努める社員であれば、「政府の経営音痴」と罵倒したくなります。しかし、政府から言えば「グローバルに勝てる商品やサービスを生み出すことのできない民間企業の努力不足」と反駁したくなるでしょう。

 もしかしたら、私たち一人一人が、政府に丸投げせずに、タンス貯金などせずに、自分たちの頭を使って国内企業に”投資”を行えば、もうからない会社を早々にたたきつぶして、もうかる会社だけに資本が集まる仕組みを作れたかもしれません。つまるところ ―― 現存の仕組みを変えたくなくて、新しい価値に積極的に投資を行わない、私たち日本人が悪い、とも言えるかもしれません。

 しかし、この話、そんなに単純なものでもないようです。この話も、この連載で続けたいと思います。

お金に関する「江端の黒歴史」

 以下の表は、お金に関して、世間に踊らされてきた、江端の黒歴史です。多分、これ、内容や規模の差はあれ、ほとんどの人が体験してきたことではないか、と思うのです。

 何が言いたいかというと、私は、世間のブーム(バブル等)に乗せられて、”投資”のようなものをやったり、入社して「日経新聞」の購読を開始してみたり、会社で強制された確定拠出年金のメニューを自分で設定したりしましたが ―― 無駄、無益にとどまらず、(個人としては)大損しました

 「お金」に関して、私は、これまでの人生の全てで、全戦全敗に帰してきたのです。私が、「お金」に恐怖を感じて、その問題から逃亡してきたのは、無理からぬことだと思うのです。

 そして、定年をひかえたシニア江端の前に、明るい未来は見えません。病気、再就職、コミュニティー、その他の問題の中でも、最大の不安は「お金」であり、加えて、私にはその不安の原因を直視する勇気がないのです。

 一言で言えば ―― 私は、ヘタレなのです。私はあまり社会とコミットしたくないのです。1人の世界でヌクヌクしていたいのです。『閉塞した世界こそが私の楽園』というわけです。

 とはいえ、今さら『外部に向けて開放的でありながら、内部に対しては客観的に自分を観察し、つねにオープンマインドで、積極的で、活動的で、多くの人とコミュイティを図りたいと思えるような人間となるように自己改造をする』ことは無理です。それは、もう、私ではない別の世界線の別人です。

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