定年がうっすら見えてきたエンジニアが突き付けられた「お金がない」という現実:「お金に愛されないエンジニア」のための新行動論(1)(1/8 ページ)
今回のテーマは、すばり「お金」です。定年が射程に入ってきた私が、あらためて気づいたのは、「お金がない」という現実でした。2019年には「老後2000万円問題」が物議をかもし、基礎年金問題への根本的な解決も見いだせない中、もはや最後に頼れるのは「自分」しかいません。正直、“英語に愛され”なくても生きていくことはできますが、“お金に愛されない”ことは命に関わります。本シリーズでは、“英語に愛されないエンジニア”が、本気でお金と向き合い、“お金に愛されるエンジニア”を目指します。
今回のテーマは、すばり「お金」です。定年が射程に入ってきた私が、あらためて気づいたのは、「お金がない」という現実でした。2019年には「老後2000万円問題」が物議をかもし、基礎年金問題への根本的な解決も見いだせない中、もはや最後に頼れるのは「自分」しかいません。正直、“英語に愛され”なくても生きていくことはできますが、“お金に愛されない”ことは命に関わります。本シリーズでは、“英語に愛されないエンジニア”が、本気でお金と向き合い、“お金に愛されるエンジニア”を目指します。
うっすらと見えてきた「定年」
心のどこかで「なんとかなる」と思っていたのかもしれません。「誰かが手を差しのべてくれるだろう」とも思っていたのかもしれません。しかし、今のところ、これといった解決策はありませんし、差しのべられる手は、全く見えていません。
定年 ―― それは、法律的に解雇が可能となる制度(定年制)による上限年齢です。そして、私も、定年までに残された時間は、もう、そんなにありません。
今のところ、私は、酒、タバコ、(昔なら、この後に”女”と入るところですが、今は、そういう時代ではありません)は一切やらず、健康面においても問題ありません。ここ数年で、いきなり体調が悪くなる気配もありません。能力的にも、(主観的には)著しく劣化しているとは思っていません。問題は、『ほとんどのシニアが、上記のような主観的な自己評価をしてしまう』ということです。
大抵のシニアは、「シニアになる」というだけで「権力」になってしまいます。たとえ、本人が”それ”を望まなくても、です*)。
*)関連記事:「あなたは“上司”というだけで「パワハラ製造装置」になり得る」
そして、往々にしてシニアの考え方は、本人が”それ”を望まなくても、保守的なものとなり、新しいモノ/コトを排除する方向に働きます。なぜか ―― 自分の経験から、いろいろなものが「見えて」しまうからです。『ああ、これは間違いなく失敗するな』というシーンが、度々、私たちの目の前に展開されます。
『それはやめておいた方がいいよ』『もっと、注意しておく方がいいよ』と語りかけるアドバイスは、若い人たちには、『そんなものはダメだ!やるだけ無駄だ!』『事前の検討が足りない!』という叱責に聞こえるのです。
ええ、そうです。私(江端)も、若いころは、そう聞こえました。そして、何もかもにケチをつけてくる上司に、ひどく傷つけられ、心底恨んだものです(ちなみに、私は、今でも腹を立てていますが)。
このシニアの生み出す『後進性』が、最もひどい形で実体化されているのが「国会」と「町内会」です*)。
*)関連記事:「デジタル時代の敬老精神 〜シニア活用の心構えとは」
もちろん、シニアの中でも、無自覚なパワハラを発生させることなく、能力を発揮し、新しい考え方を取り入れ、チャレンジを続け、皆から慕われ信頼され続けているシニアがいます ―― “私(江端)”です。
が、ぶっちゃけ、そんなこと(江端のたわ言)はどーでもいいのです。問題となるのは上記のような「シニアの負の側面」なのです。
なぜ、企業は高学歴の学生を採用したがるのか? 高学歴の学生が、必ずしも優れた社員になるという保障は全くありません。しかし「ハズレの確率が低くなる」のは事実です。いわゆる「シグナリング理論」です(関連記事:「心を組み込まれた人工知能 〜人間の心理を数式化したマッチング技術」)。
シグナリング理論を、そのままシニアに当てはめてみれば、「シニアの過去の成功体験というシグナル」は、次の世代においては、新しい試みを妨害し、禍々しい光を放ち続けるシグナルです。そういうシグナルは、静かに消えていき、次の世代への『穏やかな権力譲渡』が望まれているのです。
だからこそ、定年制というのは、企業体が生き残るために、必要かつ不可欠な制度なのです ―― と、私は、ずっと言い続けてきました ―― 『自分がその当事者になる』と自覚するまでは。
私はこれまで、100本以上のコラムや特許を執筆・発表して、いくつかの会社との協業プロジェクトも担当し、国際学会の発表もして、自分のプレゼンには余念がなかったと思っていたのですが ―― 結果として、一向にやってきませんでしたね、ヘッドハンティング。
出版や講演のオファーはほとんどありませんし(いくつかは、方針が合いませんでした)、学会や研究機関からのお誘いなどは絶無です。
私、『我が国には、あなたが必要なのです』と熱く語られれば、うれしくなって、近所の大陸だって、隣りの半島(の北側)だって、ホイホイとついて行ってもいいくらいの気持ちがあるのですが ―― いや、本当に、全くもって、どこからもお声がかかりません(声をかけてくれたのは、EE Times Japanくらいです)。
こうなれば、もはや、認めるしかないでしょう ―― 『私(江端)には、市場価値がない』という事実を。
私の価値は、しょせんは、私という世界の中での評価に過ぎなかったようです(なんか、書いていて、情けなくて泣きそうな気分になってきました)。
将来の私は、「私の適性に応じた仕事を選択する」などというぜいたくは許されておらず、「どんな仕事でもやらせて頂きます」という態度で、仕事を頂きながら生きていくしかないようです ―― まあ、考えてみれば、これまでと同じと言えば、同じですが。
『江端君。つまるところ、最後にモノを言うのは、”健康”だよ』と言った、かつての上司の言葉が、乾燥した大地に水が染み込むがごとく、深く理解できるようになりました。
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