老後を生き残る「戦略としての信仰」は存在するのか:「お金に愛されないエンジニア」のための新行動論(6)(8/12 ページ)
今回は、「老後を生き残る「戦略としての信仰」」をテーゼに掲げて検討していきます。宗教は果たして私を幸せにしてくれるのか――。それを考えるべく、「江端教」なる架空の宗教団体をベースに話を進めます。
テーゼ:カルト宗教は私を助けてくれるのか
長い前半でした。ここから後半、本論に入ります。
ここまでは、いわゆるカルトと呼ばれている宗教団体の性格を俯瞰(ふかん)するために、「江端教」なるカルト宗教団体を作り出して考えてみましたが、宗教であれ、政治であれ、左翼であれ、右翼であれ、カルトの本質は同じです ―― 「洗脳」と「思考放棄」です。
改めて、この連載の目的は、「お金に愛されないエンジニア」の自己救済方法です。そして、今回のテーゼは、「カルト宗教は、リタイア後に無収入になる予定の私に、安全・安心な老後を提供してくれるか」です。それが達成されるのであれば、私は、「洗脳」と「思考放棄」を受け入れる準備があります。
最大の懸案は、私の最期、終末期です。
どんな元気な人であったとしても終末期には、当然に”寝たきり”になります。現時点で、私たちが”寝たきり”になる期間は、男性で約10年間、女性は13年間です(関連記事:「高齢者介護 〜医療の進歩の代償なのか」)。
全ての財産を教団に投げ出して、事実上の破綻状態になっている私の最期(10年間)を、教団は面倒を見てくれるか、ということになります。
後先考えずに、教団への寄進を続ける私を、妻や娘が見捨てて、絶縁状態に至ることは、どう考えても自明です。
と同時に、全ての財産を投げうって教団に尽くす信者を、教団が保護するべきですし、信者である私は、当然に、そのような保護を期待します。
あとは、終末期のメンタルケアです。家族から見捨てられた私は、孤立無縁の孤独状態です。全ての宗教は、人々の心の救済が心の目的で、特に死の恐怖からの回避が、その最大の意義です。
うまいこと、私の心の安寧をキープして、心安らかな死に導いてくれるか ―― というか、この私(江端)を納得させるだけの、説得力のある来世のビジョンを、きちんとプレゼンテーションしてくれるのか、が心配です。
さすがに「科学的な証拠を出せ」とまでは言いませんが、私程度の素人に、簡単に論破されるような軟弱なプレゼンテーションでは、困るのです。
一方、終末期直前までの私であれば、結構、教団の役に立つと思います。なにしろ、エンジニアであり研究員でもある私は、「自分が信じていないことであっても、他人に信じさせる技術」については、徹底的に訓練されているからです(学会発表とか、顧客プレゼンテーションとかで)。
ただ、管理者としての能力は、ダメダメだろうと思っています。何しろ私は、後進を育成するという気概に決定的に欠けているからです。そんな時間があれば、自分の好きな勉強をしていたい、というマインドが常に勝ります。
とはいえ、ちゃんと訓練してもらえれば、大声で叱責することのできる、ほどよいパワハラを発動できる信者になる自信はあります。なにしろ、これまで、そうやって、大声の怒号の応酬で、カルト宗教とのバトルを繰り返してきたという、輝かしい過去の実績があるからです。
私は、きっとカルト宗教団体の発展・・・教団の外に向けては「布教」に、教団の内に向けては「洗脳」に、なかなか適した人材だと思うのですが、いかがでしょうか?
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