さて、今回から、博士課程の3年間(2022年10月から2025年9月まで)にわたって、私の研究の実質的な指導をしていただいた、有吉亮先生のお話に入りたいと思います。
有吉先生は、私が語り続けてきた、『人間心理を組み込んだマルチエージェントシミュレーションの意義と目的』を、最初に理解して頂いた方だと思っています。
当時、会社では、真面目に取りあってもらえなかったのですが、有吉先生は、
―― なるほど。江端さんは、「意思を持ったパチンコ玉」を作りたいのですね
と、私の目指しているものを、たった一言で言語化しました。そして、この一言が、私に大学院への入学を決意させたといっても、過言ではありません。
なんだかんだ言っても、MASって、つまるところパチンコ台です。
パチンコ台に玉が打ち込まれると、玉は、クギやさまざまな役物に衝突しながら、落下していきます。
しかし、パチンコ玉の1個1個は、単純に物理法則に従って軌道を変えているだけです。そしてMASのエージェント1人1人も、一元的なルールが記載されているメモリ上の領域の一部に過ぎません。
つまり、パチンコ玉にも、MASのエージェントにも、本当の意味での「意思」はありません。あるのは、あらかじめ与えられたルールだけです。
しかし正直なところ、一般的なMASのエージェントを見ていると、『どうぶつの森』に登場するモブキャラの方が、まだ人間らしい動きをしているじゃないか、と思ってしまうのです。
有吉先生は ―― 甚だ失礼かとも思いますが ―― 私の中では「パチンコ」のパラダイムの使い手です。
先ほどの「意思を持ったパチンコ玉」のほかにも、移動困難者――例えば、免許返納後の高齢者――を対象とした地域交通サービスについて、こんな発言をされていました。
――パチンコ店に行くオンデマンドバスが運行されていないのは、おかしくないか?
『いや、おかしいのは先生の方です』とツッコミ入れてしまいそうですが、これ、実に理にかなった話なのです。
私たちは、年齢とともに、いずれ移動手段を失っていきます。しかし、そのために、遊びや楽しみまで失うことを運命として受け入れろというのであれば、それは、いずれ自分が「希望のない社会」に属することを、あらかじめ諦めろと言っているのと同じことです。
つまり先生は、地域交通とは、単に生命を維持するためのものではなく、私たちが、いつまでも「楽しい」と思える社会を維持し続けるための手段であるべきだ、とおっしゃっているのです。
総じて、このようなパラダイムに到着してみせることこそ、有吉先生を含めた大学の先生たちの「凄さ」です ―― 私のような私企業の研究員やエンジニアでは到底たどり着けない思考の深部まで潜り込み、そこで拾い上げたものに名前を与え、私たちの目の前にたたきつけてみせて――私を驚がくさせ続けたのです。
さて、入学と同時に、MASシミュレータの設計を始めようとする私に対して、意外なことに、有吉先生は「STOP!」をかけます ―― 事実上のMAS制作の停止命令です。
―― 江端さんには、まず、この分野――マルチエージェントシミュレーション(MAS)――について、世界中の誰から、どのような角度で突っ込まれても、びくともしない専門家になっていただきます。
有吉先生の指示は、世の中に存在する汎用MASシミュレータの種類、その構造や機能を調べるだけにとどまりませんでした。MASを用いて、これまでにどのような研究が行われ、何が明らかにされ、何が未解決のまま残されているのか――それらを徹底的に調査し、理解するよう求められたのです。
「人間心理を組み込んだマルチエージェントシミュレーション」をツールとして「公共交通が私たちに与える『移動とは別の意義』の研究」をしたくて、私は大学院の博士課程へ入学しました。
ところが、入学直後に「作るな」と言われ、私は戸惑いました。
「モノは、作って、動かしててナンボ」をポリシーとしてきた私にとって、これは、かなり厳しい命令でしたが、これが、実に的(まと)を射たご指導だったのです。
その理由は、3年後に待ち受ける博士論文の最終審査――英語でいうところの“Final Defense”、すなわち「最終防衛戦」――と深く関係するのですが、その話はいずれお話します。
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