で、まあ、私はそこから、狂ったようにMASの汎用ツールと過去の研究を調べ始めました。
どのくらい狂っていたかというと、ざっくり過去30年分の論文――主としてアブストラクトですが――を、片っ端から読んでいったくらいです。
もちろん“Google Scholar”も使いましたが、本当に威力を発揮したのは、大学が提供している論文検索サービスでした。一般には全文を読めない論文についても、大学の契約を通じて中身を確認できたからです。
そして、MASを利用した研究を分野別に分類し、論文数を数えてみました。以下が、その結果です。
さらに、論文数を5年単位でまとめ、その推移も調べました。すると、MASを研究対象そのものとする論文だけではなく、MASを「道具」として利用する研究が、ほぼすべての分野で増加していることが分かりました。
ところが、そのグラフを眺めているうちに、少し気になることが出てきました。
―― なんか、2006年を越えたあたりから、MASを使った研究が、妙に増えていないか?
この時期の増え方には、何か別の理由があるように見えました。
そこで今度は、“Google Trends”を使って、“Multi-Agent Simulation”という言葉が、Google検索でどの程度の関心を集めていたかを調べてみました。Google Trendsのデータは2004年までしか、さかのぼれませんでしたが、それでも、妙な傾向は確認できました。
―― 2004年から2006年にかけて、“Multi-Agent Simulation”に対する検索関心度が大きく上昇している。
私は、このグラフを見て、少し心当たりがありました。
そこで、“Multi-Agent Simulation”に加えて、“32bit OS”と“64bit OS”についても、同じ時期の検索傾向を重ねてみました。
すると、MASが注目され始めた時期と、PCのOSが32bitから64bitへ移行していった時期が、かなり重なっているように見えました。この時期は、パソコンの世界で、32bit OSから64bit OSへの転換が進み始めた時期です。
MASは、多数のエージェントを同時に動かすシミュレーションです。そのため、計算量が多く、長時間にわたってCPUを使い続け、さらに大量のメモリを消費します。
数時間で終わるならまだよく、条件によっては数日間、計算を回し続けることもあります。要するに、計算資源を食いつぶす、かなり厄介な研究手法だったのです。
特に深刻だったのが、メモリ容量です。
MASでは、エージェントの人数を増やせば、その分だけ保持しなければならないデータも増えます。位置、状態、属性、行動履歴、周囲との関係などをエージェントごとに持たせれば、必要なメモリ量は、大体エージェント数に比例して増えていきます。
ところが、32bit OSでは、一般的なPCが扱えるメモリ空間には、事実上4GB前後の壁がありました。
当時のMASは、個人が自宅のPCでホイホイと実行できるような代物ではありませんでした。大規模な計算を行うなら、組織が管理する大型計算機や、場合によってはスーパーコンピュータの領域だったのです。
ところが、64bit OSが普及し始めると、この状況が変わりました。32bitから64bitへの移行によって、理論上のアドレス空間は、232個から264個へ拡大します。比率だけでいえば、232倍です。
もちろん、現実のPCに、それだけのメモリを搭載できるわけではありません。CPU、OS、マザーボード、価格など、さまざまな制約があります。それでも、「4GBの壁を越えられる」ということには、極めて大きな意味がありました。少なくとも、エージェント数を増やすたびに、すぐメモリ上限に突き当たる時代からは、抜け出し始めたのです。
とはいえ、64bit OSになったからといって、PCが無限にメモリを搭載できるわけではありません。
そこで私は、実際の一般向けPCに、どの程度のメモリが搭載されるようになったのかを調べてみました。
対象にしたのは、あるメーカーのノートPCシリーズです。その結果が、次の表とグラフです。
―― あ、やっぱりそうだ。
2005年前後のモデルチェンジを境に、搭載メモリ量が、それまでとは明らかに違う増え方をしていました。グラフの縦軸は対数表示となっており、この時期の増加が、かなり急激であることが分かります。
つまり、MASを取り巻く計算環境は、この時期に大きく変わったのです。
それまで、MASは、組織が管理する大型計算機の側にありましたが、64bit OSと大容量メモリを搭載したPCの普及によって、個人の机の上に、いきなり「落ちてきた」 ―― 私は、このように理解しています。
もちろん、計算機性能だけで、MAS研究の増加を全て説明できるとは思いません。
ツールの整備、プログラミング言語の発展、研究分野の拡大、社会現象を計算機上で再現したいという需要の増加など、ほかにも多くの要因があります。
それでも、個人のPCで大規模なMASを動かせるようになったことは、かなり大きな転換点だったはずです。
それまでのMASは、室内にいる数人、あるいは建物内の避難行動といった比較的小さな対象を扱うことが中心でした。映画館や駅、建物内で火災が起きた際の避難シミュレーションなどです。
ところが、計算機性能が向上すると、対象は一気に広がりました。数百人、数千人、さらに数万人のエージェントを扱えるようになり、街区、交通網、都市全体のシミュレーションが可能になりました。
MASは、「限られた空間の中にいる人間の動き」を再現する道具から、「都市の中で生活する多数の人間」を扱う道具へと「成り上がった」のです。
そして、その入口にあったのが、理論上の美しい研究のブレークスルーではなく、
―― 普通のPCに、たくさんメモリを載せられるようになった
という、ひどく身も蓋もない技術的事情だった、と、私は考えています。
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