関心を寄せる対象が、日本を通り抜けて他のアジア諸国へと向かってしまう「ジャパンパッシング(Japan Passing)」。だが数年前から、このジャパンパッシングが終息しているともいわれてきた。今回は、1980年代から現在にかけての、日本とシリコンバレーとの関係の歴史を振り返ってみたい。
この記事は会員限定です。会員登録すると全てご覧いただけます。
⇒「イノベーションは日本を救うのか 〜シリコンバレー最前線に見るヒント〜」バックナンバー
筆者がAZCAを設立したのは1985年のことだ。米国ベンチャー企業の日本市場参入、日本企業の米国市場参入および米国ハイテクベンチャーとの戦略的提携による新規事業開拓など、ひとことで言うと「イノベーションを新規事業に結び付ける」仕事を、主に北米のベンチャーと日本企業の提携を支援するビジネスを中心に、事業を行ってきたわけである。
それから30年以上がたつ今、AZCA設立ごろから現在までのシリコンバレーと日本の関係の歴史を、あらためて振り返ってみたい。
筆者がAZCAを設立した1985ごろは、円高が進んだ時期だった。1985年9月のプラザ合意(Plaza Accord)により、円が高くなったのだ。
日本にとっては、アメリカのものは何でも安く見えた時代だった。三菱地所によるロックフェラーグループの買収、松下電器(当時)によるユニバーサルの買収、ソニーのコロンビア買収など、今では信じられないような買収劇が相次いだのも、この頃である。こうした派手な買収がある一方で、化学や製鉄といった業界は斜陽産業となりつつあり、これまでの連載でも何度か取り上げた通り、事業の多角化を迫られていた。
同じころの米国はインターネット以前の時代であり、ワークステーション、コンピュータ、半導体などの産業が芽吹き、まさにこれから成長しようとしていた。一方で多くのベンチャー企業は資金調達に苦労していた。
多角化を図ろうとしていた日本の大企業と、資金繰りに苦しむ北米のベンチャー企業。互いにニーズはマッチしていた。加えて円高が追い風となり、良好な提携が望める時代背景だったのである。筆者はそれを実際に経験している。ベンチャーキャピタリストやビジネス上で知り合った人物にAZCAのことを話すと、翌日には、資本参加も含む日本企業との戦略的提携支援の依頼のために、数社のベンチャー企業から電話がかかってくるような状況だったのだ。日本企業と北米のベンチャー、双方にとって、大きな機運の高まりを感じられる時期だった。
日本の企業との戦略的提携求める状態が続いていた一方で、日本は大きな転換期を迎えた。1990年、4〜5年続いたバブルが崩壊したのだ。以後、日本の経済は暗く長いトンネルに入ってしまうことになる。
バブルがはじけて以来、当然ながら日本企業は海外のベンチャーに投資しにくくなっていった。だが、米国のベンチャーはしばらくの間、それに気付くことはなかった。米国では1995年くらいにインターネット時代が本格的に到来し、2000年のネットバブルに向けて突き進んでいくことになる。その過程で、「日本に行っても投資をしてもらえない。戦略的提携は期待できない」という見方が強まり、日本を素通りして、韓国、台湾、中国を目指すベンチャーが増えていったのである。この現象は、「Japan Passing」と呼ばれた。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.