今回から、シリコンバレーの歴史を振り返ってみよう。世界屈指の”ハイテク企業地帯”は、どのようにして生まれたのか。まずは、「シリコンバレー以前」から、Appleが創設され、「Apple II」が登場するまでをご紹介しよう。
シリコンバレーの名前を聞いたことのない人は少ないだろう。しかし、実際に行ったことのある人、もしくはそこで生活したことのある人は、そこまで多くはないだろう。そこで今回は、シリコンバレーが一体どんな場所なのか、簡単に案内させていただきたい。
左手を、手のひらを上にして広げてみてほしい。シリコンバレー周辺のエリアは、左手の親指と人差し指を使って説明できる。
親指の先端にあるのがサンフランシスコ、親指の付け根にあるのがサンノゼだ。サンフランシスコからゴールデンゲート・ブリッジ(金門橋)を渡って北へ行くと、ワインで有名なナパやソノマがある。人差し指の方向、つまりサンフランシスコの北東に進むと、1989年4月に起きたサンフランシスコ大地震のときに壊れかけたベイブリッジがある。これを渡れば、カリフォルニア州立大学バークレー校がある。これら3点、サンフランシスコ、バークレー、サンノゼに囲まれてサンフランシスコ湾がある。
水が全部入れ替わるには1000年かかるといわれる、このサンフランシスコ湾を囲んでシリコンバレーが広がるが、なぜ「バレー(谷)」と呼ばれるのだろうか。これは、親指の先端(サンフランシスコ)から親指の付け根(サンノゼ)の下の方に向かってサンタクルーズ山麓が太平洋岸に沿って走っており、人差し指から南に向かって、つまりサンフランシスコ湾の東側にもなだらかな山麓が走っているからだ。シリコンバレーは「バレー」の名にふさわしく、これらの山麓に囲まれているわけだ。
そして、サンノゼからサンフランシスコまでは距離にして約50マイル(約80km)である。従って、シリコンバレーは、直径80kmの楕円形をした地域だといえる。
“ゴールデン・ステート”と呼ばれるカリフォルニア州にあるこの土地は、太陽の光がさんさんと降り注ぐ大変温暖な気候に恵まれて、古くから多くの果樹園があり、1940年ごろまでには、この辺りは世界でも有数の乾燥果物の出荷地域になっていた。後にこの地がハイテク企業の密集地として「シリコンバレー」と呼ばれ、世界的にみても独特の文化が生まれるのに、こうした地理的条件は一役買っている。
では、「シリコンバレー」以前の歴史を少しのぞいてみよう。メキシコがスペインから独立したのは1821年のことだ。以来、カリフォルニアはメキシコ領土であった。19世紀半ばのカリフォルニアには、スペイン語を話す人たちが1万人程度住んでいたことが知られている。1848年、カリフォルニアは米国領となり、ゴールドラッシュが始まった。西部開拓のフロンティアとして多くの人々が一攫千金を夢見て流入し、1855年までには30万人もの人が、世界中のあらゆる所からやってきた。しかし、金はそう簡単に見つかるわけはなく、多くの人はやがて故郷に帰っていったといわれている。
1869年、大陸横断鉄道がサンフランシスコまで開通する。そのころ「鉄道王」として活躍し、ばく大な資産を築いたLeland Stanford(リーランド・スタンフォード)が、早くして亡くなった一人息子にちなんで、1891年にスタンフォード大学を創立したことはよく知られている。スタンフォード大学は、その後シリコンバレーの成立に大きな役割を果たすようになる。
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