本章では、現在の日本政府の政策論議、特に「ナフサ4カ月在庫」型の議論を取り上げ、なぜこの種の議論が問題の核心を外しているかを批判的に検証する。これは政治家個人への批判ではなく、日本政府の内閣府を始めとする各省庁の政策フレームワークそのものの構造的欠陥を論じるものである。
政府の説明では、日本国内のナフサ在庫は消費量換算で約4カ月分あり、当面の供給には問題がないとされる。これは石油備蓄法の枠組みを援用した議論であり、石油・ガソリン・ナフサを「総量」で把握する伝統的なエネルギー政策の発想に立脚している。
しかし、第3章で示した通り、半導体産業が必要とするのは「ナフサ総量」ではない。必要なのは以下である。
ナフサが4カ月分あっても、それが上記の特定製品に変換されなければ、半導体産業にとっては存在しないのと同じである。ナフサ⇒ナフサクラッカー⇒基幹モノマー⇒特殊モノマー⇒ポリマー⇒半導体グレード品⇒認定⇒半導体工場、というサプライチェーンの途中で詰まれば、総量が「4カ月あった」としても無意味(ナンセンス)である。
半導体産業が要求する素材の純度・組成・物性は、分子レベルで規定されている。
例えば、半導体グレードPFA配管は、金属不純物がppbオーダー以下、パーティクル溶出が特定サイズ・特定個数以下、という半導体プロセス特有の要求を満たす必要がある。これは汎用PFAでは代替できない。汎用PFAから半導体グレードPFAへの移行には、原料調達から精製プロセス、充填、検査まで別ラインが必要で、認定には1〜2年を要する。
同様に、FFKMは分子構造の違いで耐熱性、耐薬品性、圧縮永久歪みが大きく変わる。プロセスチャンバーで使われるFFKMと、ガスラインで使われるFFKMと、ウェットステーションで使われるFFKMは全て別品種であり、相互に代替できない。
この「分子レベルの適合」という次元は、政策議論にほとんど翻訳されていない。政治家も官僚も、「ナフサ」「フッ素樹脂」「フッ素ゴム」という総称で議論する。しかし現場では、「Kalrez 6375がない」「Fomblin Y 25/6がない」という具体的な品番のレベルでは問題が既に起きているし、その問題はこれから広範囲に広がる。
もう一つの本質的問題は、総量論が「局所詰まり」を捉えられないという点である。現代の半導体産業の複雑なサプライチェーンは、特定ノードに極端に依存するボトルネック構造になっている。例えば:
これらのノードのうち1つでも詰まれば、上流にいくら原料があっても末端には届かない。ナフサ4カ月在庫は、クラッカーが動いている前提、特殊化学メーカーが動いている前提、半導体グレード精製が動いている前提、認定が生きている前提、の全てが成立して初めて意味を持つ。
PFAS規制、3M撤退、Solvay分社化は、この前提の一部を崩している。総量論は、この前提崩壊を数字で捉えられない。
日本の備蓄政策は、石油危機の経験から作られたフレームワークである。それは以下を前提にしている。
しかし、半導体材料はこれら全てに該当しない。
石油備蓄のフレームワークを、そのまま半導体材料に適用することが、そもそもの根本的な誤りである。必要なのは、「認定済み特殊品のフロー確保」という別のフレームワークである。
ナフサについては曲がりなりにも議論がある。しかし、Heについては日本政府の政策議論はほぼ空白である。
Heは物理的に長期備蓄が困難であり(第2章2.3)、国内生産もほぼゼロである。日本のHe消費は全量輸入で、その大半をカタール、米国、アルジェリア等に依存している。このサプライチェーンが切れた場合の政策対応は、公表された計画の範囲では存在しない。
半導体戦略を語る際、TSMC誘致、Rapidus支援、後工程強化などの話題は頻繁に出る。しかし、「Heが輸入されなくなったらどうするか」という問いは、政策アジェンダにほぼ上がっていない。
これは経済安全保障上、深刻な空白である。数兆円の半導体工場投資は、年間数百トンのHeが来ないだけで無意味化する。費用対効果で言えば、Heのサプライチェーンの多角化、戦略備蓄基盤の整備、国産化技術の研究は、半導体工場の補助金より、はるかに高いレバレッジを持つ。
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