今回取り上げるのは「強化学習」です。実はこの強化学習とは、権力者(あるいは将来、権力者になりそうな者)を“忖度(そんたく)”する能力に長けた、政治家のようなAI技術なのです。
今、ちまたをにぎわせているAI(人工知能)。しかしAIは、特に新しい話題ではなく、何十年も前から隆盛と衰退を繰り返してきたテーマなのです。にもかかわらず、その実態は曖昧なまま……。本連載では、AIの栄枯盛衰を見てきた著者が、AIについてたっぷりと検証していきます。果たして”AIの彼方(かなた)”には、中堅主任研究員が夢見るような”知能”があるのでしょうか――。⇒連載バックナンバー
2012年、桜宮高校の男子バスケットボール部員が指導者の日常的な体罰に耐え切れず自殺した事件がありました。教育現場において「体罰」に「効果」があるのは当然です。「銃を付きつけられたら、誰だって従う」という野蛮な理屈と同じであるからです。
しかし、私は、わが国は、「体罰」に「効果」があるのは知っているが、それを「一切やめよう」と決めた国であると思っています。
クラウゼヴィッツを出すまでもなく「戦争は政治(外交)の延長である」のは自明です。しかし、戦争が、どんなに優れた外交的効果が期待できたとしても、わが国は、
―― 決して戦争をしない
―― 決して核兵器を持たない
と決めました。
そして、わが国の教育現場は、「体罰」を絶対的な意味において封印した ―― この教育方針は、わが国の平和憲法の根幹である「戦争放棄」の理念と並び立つ、わが国が誇る教育信条であると、私は信じています。
「今まさに、自殺をしようとしている子供を力づくで止めるために、やむなく体罰を行使した」という、緊急避難的な状況での話ならともかく、この男子バスケットボールの指導者は、たかだか「チームを強くするため」程度のことに「体罰が有効だ」と語ったそうです。
多分、この教師は人気があって、生徒からも同僚からも信頼を得ていて、間違いなく人間として尊敬するに足ると思われている人間だろうとは思います。なにしろ、「校長」から体罰を「看過」してもらっていた程の人間ですから。
だが、私にとって、その教師の人柄や人格などは、知ったことではありません。
この教師が、「体罰」をいう手段を「効果」のために使った ―― この一点において、私はこの教師を絶対に許さない。
教師とは『「体罰」以外のありとあらゆる手段を考えて、試して、実施して、それでもうまくいかなくて、悲しくて、辛くて、悔しくて、そうして一人で泣く』―― そういうものだろう、と私は思うのです。
私は、学生のころ、ギリギリまで迷いに迷って、最後の最後で「教職」を断念した人間です。
私は、自分のことを『効率的な手段を求めて、簡単に「体罰」を行使してしまう、浅学で狭量で卑怯な人間だ』ということを自覚していたからです*)。
*)学習塾で、私は成績の良い子どもには優しく接して、成績の悪い子どもには厳しく当たる ―― そんな講師でした(参考:著者のブログ)。
だから、私だけは、次のように声高に主張する資格がある、と思っています。
教師という、この世で一番ツラい職業を選んだのであれば、一番ツラい道を歩け
その覚悟がないなら、最初から教師などを職業として選択するな
―― と*)。
*)参考:著者のブログ
―― え?これはAIを語る連載ではないのかって?大丈夫です。ご安心ください、ちゃんとこの伏線は回収しますから。
まず、私の「体罰」に対する、私の嫌悪(憎悪)を明らかにした上で、ここからは、分析を行うエンジニアとして「体罰」について論じてみたいと思います。
そもそも、明治維新後の義務教育制度の発生の時から、教育現場における体罰というのは、法律で禁じられている行為でした。ところが日露戦争から太平洋戦争の終結に至るまで、国威高揚のため、教育現場での軍の干渉が露骨になり、軍の体罰主義が、そのまま教育現場に導入されて、体罰が日常化しました。
太平洋戦争後、法律によって、体罰の禁止が明文化され、その後、司法判断ですったもんだしましたが、現状においては「どんな事情があろうと体罰は絶対にダメ」が、わが国の国是となりました ―― の、はずなのですが。
上記の表にも記載しましたが「体罰が必要である」と考える人は、少なくないのです。「黙っているだけ」という状況が見て取れます。また、体罰の被害者が、体罰を容認しているようなのです。
つまり、口では「体罰はダメ」と言いつつ「体罰には効果がある」と考える人が一定数いるということです ―― これを、欺瞞だの、非人道的だの、反社会的だのと批判するのは簡単ですが、今回、私は、これを一人のエンジニアとして、AI技術の観点から考察してみたいと思います。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.