今回は、話をシリコンバレーの歴史に戻してみたい。現在のシリコンバレーに発展する源泉を作ったのは、トランジスタの発明者であるウィリアム・ショックレーであろう。では、彼がいなければ、シリコンバレーはどうなっていたのだろうか。
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前回は、シリコンバレーのイノベーション・エコシステムを建物の中に意図的に再現した「Plug & Play Tech Center」を紹介した。大学や研究機関、起業家、ベンチャーキャピタル(VC)、そしてインキュベーターとアクセラレーターで構成されたイノベーション・エコシステムは、シリコンバレーにおけるよい循環を生み出す源となっている。
今回は、話をシリコンバレーの歴史に戻し、“なぜ、シリコンバレーがシリコンバレーに成り得たのか”を少し考えてみたい。
「シリコンバレー以前」から「PCの登場」までで紹介した通り、シリコンバレーにおけるハイテク産業の歴史は1909年にまでさかのぼることができる。ただ、大きく発展するきっかけとなったのは、やはり、トランジスタの生みの親、ウィリアム・ショックレーだろう。
では、ショックレーが存在しなければ、現在のシリコンバレーの姿はあったのだろうか。
ショックレーは、カリフォルニア州で育った。1932年にカリフォルニア工科大学(Caltech)で学士号を取得した後は、東部のマサチューセッツ工科大学(MIT)に入学し、1936年に博士号を取得する。その後、ニュージャージー州にあるベル研究所の研究員となり、しばらく東部で過ごすことになる。トランジスタを発明したのも、ベル研究所にいたころだ。
ショックレーがカリフォルニアに戻るきっかけを作ったのは、Caltech時代の友人アーノルド・ベックマンである。彼が経営するBeckman Instrumentsの一部門として研究所を創設することを申し出たのだ。ショックレーはカリフォルニアに戻り、1956年にショックレー・トランジスター・コーポレーションが設立された。
当初、ショックレーは、ショックレー・トランジスター・コーポレーションの研究員として、ベル研究所の同僚たちをリクルートしたようだ。だが、当時はハイテク研究の中心地であった東部を誰も離れたがらず、このリクルートは失敗に終わった。代わりにショックレーは、東部や地元の大学を出たばかりの優秀な若い人物を雇っていった。この中には、インテルを共同設立し、「ムーアの法則」を提唱したことで有名なゴードン・ムーアも含まれている。
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