2013年6月17日(月)に、NHKで『島耕作のアジアの立志伝』として、「第2話 “下請け”が世界を変えた〜Morris Chang(TSMC)」が放送され、それを視聴した筆者は大きく心を打たれた。この番組で、Morris Changが1987年にファウンドリーという新たなビジネスモデルを立ち上げるまでに、極めて困難な障壁が数多くあったことを知ったからだ。以下で紹介しよう。
Morris Changは、銀行の頭取の息子として1931年に中国で生まれ、何不自由なく香港で育った。ところが、日中戦争とそれに続く蒋介石と毛沢東による中国内戦で運命が変わる。家族とともに、飲まず食わずで逃げ惑う日々が続いたという。
1949年、18歳のとき、米国にいる叔父を頼って渡米し、一念発起してハーバード大学に入学した。しかし、アルバイトをして学費を稼ぎ何とか一流大学を卒業しても、米国で中国人には職が無いことを知りがく然とする。その時の心境を、Morris Changは、次のように自伝に書き残している。
「中国人のアメリカでの道が教師か研究者しかないなら、私が先鞭をつけ、もう一つの道を切り開いてやろうではないか」
実際、Morris Changはそれを実現することになる。
Morris Changは紆余曲折の後、米国で産声を上げ始めていた半導体産業に出会い、1958年に当時はベンチャー企業だったTexas Instruments(TI)に入社し、27歳で工場責任者となった。
TIは、IBMのメインフレーム用トランジスタを下請けで製造していたが、なかなか良品ができなかった。しかし、Morris Changは試行錯誤を繰り返し、見事に良品トランジスタの製造に成功する。そして、IBMの幹部が訪ねてきて、Morris Changと以下の会話を行う。
IBM 「あなたがMorrisですか? 今回トランジスタの製造がうまくいったことについて、とても驚いています。一体どうやったんですか?」
Morris 「私たちは小さな会社で、朝から晩までトランジスタのことを考えて試行錯誤を繰り返しました。だからできたんです」
IBM 「われわれ大手では、こんなリスクの高い製品について製造ラインを組むことはできません。助かりました」
Morris Changは、この時がTI在籍27年間で最も感動したときであると述懐する。また、それまでは批判や小言ばかり言っていたIBMの態度がこの時以降一変したという。このことから、Morris Changは、下請けでもその技術を極めれば大手企業と対等の立場に立てることに気が付く。これが、Morris ChangがTSMCを立ち上げる原動力になったのではないか。
Morris Changは実績が認められ、TIでは半導体部門のトップに昇進した。しかし、TIはリスクの高い半導体より、安定性のある家電製品に力を入れていたため、Morris Changにとっては、このTIの方針は不満だった。
そして、Morris Changが54歳のとき転機が訪れる。1985年に、台湾当局から、「世界に通じる半導体産業を台湾につくり出して欲しい」と要請されたのだ。Morris Changは「願ってもないことだ」とこの要請を受け、台湾工業技術研究院(Industrial Technology Research Institute、ITRI)の院長に就任する。Morris Changは、「米国で歩んできた道を変えたかった、米国で学んできたことを台湾に持ち込み、台湾工業を発展させ競争力を高めるのだ」と抱負を語っている。
しかし、1985年と言えば、日本が米国を追い越し、世界の半導体産業を席巻していた時代である。台湾には、小さな町工場の部品メーカーしかなかった。何をどうすればいいのか、Morris Changは悩み始めた。
当初、台湾当局は、Morris Changに垂直統合型(Integrated Device Manufacturer、IDM)の半導体メーカーの立ち上げを期待していたという。しかし、Morris Changは、台湾は遅れており、設計に秀でた点もなく、資金も十分ないため、IDMによる成功は難しいと考えた。
そして、熟考を重ねた末、Morris Changはチップ製造だけを請け負うファウンドリーを行う決意をする。しかし、これには反対意見が続出した。半導体工場の建設には膨大な資金が必要となる。それなのに、そうして建設した半導体工場で、どこか別の会社の半導体を製造するというのか?―― これは世界の誰もが考えたことが無い、奇想天外な着想だった。
出資を頼んだ大企業からは軒並み断られた。Intelの創業者からは、「君は良いアイデアを持っているが、今回は良くないね」と批判された。ソニーや三菱電機など日本企業にも多数打診したが、興味を示したこところは1社も無かった。
Morris Changは、このような逆風の中で1987年にTSMCを創業したのである。数年間はほとんど売り上げが無かったという。技術が劣るとみられて、大手企業のおこぼれのような仕事しかなかったからだ。
冒頭で述べた通り筆者は、TSMCが創業された1987年に日立に入社し、半導体技術者になったが、TSMCの存在を知ったのは1995年にDRAM工場に異動した頃だったと思う。そして、台湾の技術を“下の下”に見ていた。また、そんな技術のファウンドリーが成功するはずがないと思っていた。当時は筆者だけでなく、日立全体、日本半導体産業の全体が、そのようにTSMCを見下していたと思われる。
1990年代初旬、米国西海岸のシリコンバレーでは、設計を専門に行うファブレスが誕生し始めていた。TSMCができたからファブレスが誕生し始めたのか、Morris Changがファブレス誕生の萌芽を予測してTSMCを創業したのか、それは筆者には分からない。
しかし、この二つの要素が相乗効果を生み出し、歴史が動き始める。シリコンバレーで次々と誕生するファブレスとTSMCが、お互いを利用し合い、正のスパイラルに突入していく。
前掲の番組ではグラフィックス用プロセッサGPUで確個たる地位を築いたNVIDIAが取り上げられている。NVIDIAは、1993年にJen-Hsun Huang CEOが創業し、TSMCに生産委託することにより急成長していく。2009年に公開された映画『アバター』のグラフィックスは、NVIDIAのGPUなくしては実現されなかったという。
番組が放送された2013年時点で、世界でファブレスは1000社超だったが、現在は2000社を超えていると思われる。もしTSMCが無かったら、もしMorris Changがファウンドリーを始めなかったら、このようなビジネスモデルは成立しなかっただろう。番組中でもMorris Changが言っているように、彼は、「ロジック半導体業界を根本から変えた」のである。
前掲の図4に示したように、2011年以降は、Intel、Samsung、TSMCの3社が、世界半導体売上高の1〜3位を独占している。
ここで、IntelとSamsungについては1987年の売上高を「1」と規格化し、TSMCについては1990年の売上高を「1」と規格化して、3社の売上高の推移をグラフにしてみた(図5)。本来なら、TSMCも1987年の売上高で規格化するべきなのだが、残念ながらTSMCのIRデータをくまなく探しても、1987〜1989年の売上高を見つけることができなかったため、最も古い1990年の売上高で規格化した(前掲番組でMorris Changが言っているように、本当に売り上げが無かったのかもしれない)。
その結果、2019年までに、Intelの売上高は約48倍になり、Samsungは約170倍になった(メモリバブルの2018年には231倍に拡大している)。そして、TSMCの売上高は、何と約412倍に成長したことが分かった。
TSMCは、売上高の飛躍的な成長だけではなく、2015年以降はIntelに代わって、微細化の最先端をけん引する半導体メーカーになった。10nmの立ち上げに失敗し、7nmのメドが立たないIntelは、TSMCへプロセッサの生産を委託し、ファブレスになる道を選ぶかもしれない。
そして、そのTSMCに、唯一追随しようとしているのが、Samsungである。では、Samsungの2代目の会長の李健熙は、何を「変えた」のだろうか?
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