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「賭け」に勝った台湾 半導体産業の成功の裏にある切実さ電子機器設計/組み込み開発メルマガ 編集後記

上映会の直後、休暇で台湾旅行に行っていたのですが、飛行機の中で見られる映画のリストに「チップ・オデッセイ 台湾の賭け」があり、思わず行き帰りで2回見てしまいました。

» 2026年05月25日 12時30分 公開
[浅井涼EE Times Japan]

 この記事は、2026年5月25日発行の「電子機器設計/組み込み開発 メールマガジン」に掲載されたEE Times Japan/EDN Japanの編集担当者による編集後記の転載です。

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「賭け」に勝った台湾 半導体産業の成功の裏にある切実さ

 先日、早稲田大学台湾研究所が主催する「チップ・オデッセイ 台湾の賭け」の上映会に行ってきました。台湾の半導体産業の歩みを記録したドキュメンタリー映画です。原題は「造山者 世紀的賭注」。造山者とは半導体産業を立ち上げた人々のことで、台湾では半導体産業が経済や安全保障を支える最重要産業として「護国神山」と称されることにちなみます。

 作中では、勇気を持って危機を乗り越えてきた台湾の人々の50年間が描かれていました。

 1970年代、台湾は厳しい国際情勢の中にありました。1971年には国連を脱退し、その後は各国が次々と中国と国交を正常化。1979年には米国とも断交し、在台米軍も撤退しました。外交的孤立や安全保障への不安が強まる中で、台湾には「世界経済に不可欠な存在にならなければ生き残れない」という強い危機感があったといいます。

 資源に乏しい台湾が活路として選んだのがハイテク産業でした。当時の台湾は、繊維や雑貨などの労働集約型の軽工業が中心で、現在のような先進的な製造業はありませんでした。作中では、当時の米国映画の中で、粗悪品をからかう文脈で「それ、台湾製?」というせりふまで使われていたことが紹介されていました。

 そんな状況から半導体産業を立ち上げることはまさに「賭け」でした。1973年には工業技術研究院(ITRI)が発足し、1975年には台湾当局が集積回路推進計画を策定。翌1976年には、米国の電機メーカーRCAに若手エリート技術者を派遣し、半導体製造技術を学ばせました。

 その後、1980年には新竹テクノロジーパークが完成。同年、台湾初の半導体企業であるUMCが設立されました。1987年にはTSMCが誕生します。現在の世界半導体市場を見ると、台湾が賭けに勝ったことには異論はないでしょう。

 作中では、当時RCAに派遣された技術者へのインタビューも多く取り上げられていました。印象的だったのは、当時を振り返って涙を流す人が多かったことです。

 これは、単に若き日の苦労を懐かしんでのことではないように思いました。半導体産業を立ち上げることは、台湾の人たちにとって「自分たちの社会を存続させる」というアイデンティティーにも関わる課題と深く結びついていたのではないでしょうか。台湾での公開時も、泣きながら見る観客が多かったといいます。

 私が半導体業界を取材し始めたばかりのころ、「台湾に最先端の半導体技術がある」ということをどこか前提条件のように見ていたかもしれません。しかし、当然ながら技術は最初からそこにあったのではなく、挑戦の積み重ねで作り上げられたものなのだと改めて実感しました。

日本は「賭けに負けた」のか?

 上映会では、ジャーナリストの林宏文氏と大東文化大学 教授の野嶋剛氏によるトークセッションもありました。

大東文化大学 教授の野嶋剛氏(左)とジャーナリストの林宏文氏(右) 大東文化大学 教授の野嶋剛氏(左)とジャーナリストの林宏文氏(右)[クリックで拡大]

 そこでは、「台湾の半導体産業はゼロから始まって、日本や韓国、米国を追い抜いて世界一になった。台湾が『賭けに勝った』ということは、別の言い方をすれば日本は『賭けに負けた』のか」という問いがありました。

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