MEMS技術を使った慣性センサーがなぜ性能面で当初の期待に応えられなかったのか、性能を伸ばすための手法を新たに提案できなかったのかを今こそ検証すべきである。
MEMS(Micro Electro Mechanical Systems)技術を使った慣性センサーの初作品が登場したのは、だいぶ昔のことだ。しかし、米Analog Devices 社やドイツRobert Bosch 社、米Motorola 社、スイスSTMicroelectronics 社などが、角速度や加速度を測定するMEMS慣性センサーを市場に投入したのは、その後25年以上も経過した後だった。米国の研究機関であるDefence Advanced Research ProjectAgency(DARPA)によって、ナビゲーションに向けた研究開発が進められた慣性センサーだったが、実際には自動車のエアバッグ・システムの衝突検出器の分野で初めて市場が立ち上がった。
MEMS技術を使った慣性センサーの市場は、この20年の間に急速に広がった。当初は高級車のみが搭載していたエアバックは、今やありとあらゆる車種に搭載されるようになった。これに伴って、慣性センサーもあらゆる車種に広がった。さらに、慣性センサーのコストや寸法、消費電力が大きく改善したことで、今や慣性センサーはゲーム機のコントローラやスマートホンといった民生分野にも普及している。
ただ、性能だけは昔から大きく変わっていない。信号処理は、幾分デジタル化した。しかし、雑音レベルや安定度といったナビゲーション用途で重要な要素については、状況はあまり変わっていないのである。MEMS技術を使った慣性センサーがなぜ性能面で当初の期待に応えられなかったのか、性能を伸ばすための手法を新たに提案できなかったのかを今こそ検証すべきである。
MEMS技術を使った慣性センサーの製造技術は、最初の試作品が大学で開発された時と比べると、劇的に向上している。例えば、高いアスペクト比を実現するエッチング技術やウェハー・ボンディング技術、パッケージング技術などである。ナノ・エレクトロニクスに基づいた製造技術によって、民生分野に適したMEMSセンサーを製造できるようになった。当社(米Hewlett-Packard社)は、25年以上にわたって蓄積してきた製造技術を、センサーに対してではなくノズル密度が高く液滴が小さいMEMSプリンタ・ヘッドの開発にこれまで活用してきた。
さらに、これらの製造技術を応用して、MEMS技術を基にしたストレージの開発を進めてきた。これは、情報を書き込むデバイスと記録する媒体を組み合わせたCD-RW(Compact Disc-ReWritable)のようなストレージ・システムを小型化し、チップにしてしまおうというものだ。回転するディスクは、「マイクロ移動体」と呼ぶX軸方向とY軸方向の位置決めデバイスに置き換える。また、データを書き込むレーザーの替わりに電界放出デバイスを使う。記録媒体の相変化を使って情報を保持する点は、CR-RWとMEMS技術を基にしたストレージとも同じである。
高性能の慣性センサーを開発するのに必要な基盤技術は、このMEMSストレージを開発する過程で発見したものだ。ウェハー・ボンディング技術と高いアスペクト比を実現するエッチング技術を使ってマイクロ移動体(精密な位置決めデバイス)を形成した。CR-RWにおける記録メディアとレーザーの位置関係とは上下が逆に、精密な位置決めデバイスを配置することで、CR-RWのようなオンチップ・ストレージが高性能の慣性センサーに様変わりした。
マイクロ移動体を応用して優れた慣性センサーを作れたのは、偶然ではない。マイクロ移動体を使ったストレージと高性能の慣性センサーのどちらも、以下に挙げる4つの特性指標が重要となるためだ。
1つ目は、熱安定性が高いことである。ストレージや慣性センサーの最も重要な指標は、周囲温度が変化したときも性能が劣化しない点である。熱安定性が悪いと、情報の迅速な検出に悪影響を及ぼす。また、例えば加速度センサーの出力のずれが蓄積して、積分誤差を生む。
熱安定性を高めるために、金属層と誘電体層で構成した単結晶Si(シリコン)構造を使った。これで、熱変化に起因した応力変化を最小限に抑えられる。また、熱安定性を高めるには、周囲温度の変動に対してデバイス全体が同じように変化することも大切だ。
2つ目は、可動部分の実効質量が大きいことである。ストレージ全体の記録容量は、記録媒体のすべての領域の容量で決まる。この容量を増やすには、より大きなマイクロ移動体を形成する必要がある。センサーでは、実効質量を増やすことが熱に起因した雑音を低減する鍵となる(図1)。ナノ・スケールの製造技術は、MEMS技術を使用した慣性センサーにとって、常に役立つわけではない。業界最小の慣性センサーを取り扱う場合には、熱雑音といったセンサーの分解能を制限する要素も考慮する必要がある。ただし、小型化と高性能化のバランスをとることは可能であろう。
3つ目は、高い精度で「ギャップ」を制御することである。ストレージへ正確にデータを書き込むには、記録メディアと電界放出デバイスの間隔、すなわちギャップを高い精度で制御することが重要である。慣性センサーも同様だ。高いアスペクト比を実現するウェハー貫通エッチングを利用して、ギャップを高い精度で制御するために十分な剛性を備えた湾曲構造を形成している。
4つ目は、ダイナミック・レンジが広いことである。マイクロ移動体が素子内部で遠くに移動できるほど良い。電界放出デバイス1つ当たり、より広範囲のデータを読み書きできるからだ。すなわち、移動範囲が広がれば、必要となる電界放出デバイスの数が減らせる。この結果、電界放出デバイスを並列処理するとしても数を減らせるため、システムの複雑さやコストを削減できる。
当社では慣性センサーに向けて、移動範囲が広がる新たな電極配置を開発した(図2)。電極表面と電極表面の静電容量の変化を検出する電極配置である。これは、従来のMEMSアクチュエータに使われていたくし型電極から一歩前に踏み出した画期的な手法だと考えてる。
ウェハー・ボンディング技術とリソグラフィ技術に加えて、新たな電極配置を採用することで、アクチュエータの出力範囲が広がり、広い変動範囲の加速度に対して静電容量を忠実に変化させられるようになった。新たな電極配置を採用する最大の利点は、移動範囲の制限が無くなったことだろう。これによって、高い分解能に加えて、ダイナミック・レンジを広げることにも成功した。例えば、分解能がμg(gは重力加速度)の加速度センサーでは、測定範囲は10gを越える。
以上をまとめると、MEMS技術を利用したストレージから発展した新しい基盤技術を採用すれば、これまでのMEMSセンサーのコストや寸法、消費電力を維持しながら、雑音レベルやダイナミック・レンジ、熱安定性を大きく改善できる。このことは試験で確認済みである。X軸とY軸、Z軸に加えて、ロール、ピッチ、ヨーという、ナビゲーションに必要な6つの動作軸を測定できるようにセンサーを集積化すれば、実装コストをさらに削減できるだろう。
新しい技術基盤を適用することで、新たな用途に、高感度の加速度センサーを使えることになった。
例えば、建造物の安全監視システムでは、橋の動きや振動モードをリアルタイムに検出する装置が不可欠である。「ゴールデンゲートブリッジ」(全長2737m)といった大型の橋では、数百あるいは数千もの加速度センサー・ノードを使って振動を遠隔監視している。観測データを常時処理し、正常なデータから逸脱した変化を検出することで、建造物の老朽化を知らせる警告信号を送信する。建造物に設置した後の維持管理費用を最小限に抑えるために、小型かつ安価で、耐久性が高く、消費電力が低いセンサー・ノードが求められている。
実際、MEMS技術を使った慣性センサーは、いくつかの橋の監視に使われている。最近の慣性センサーは、寸法と消費電力に対する要求を満たしていることに加えて、感度も向上しているため、建造物の挙動をより正確に視覚化できる。大規模な建造物に特有の低周波振動に対する分解能を向上させるために安定性を改善し、さらに雑音レベルを低減したMEMSセンサーが使われている。
さらに地球物理の分野では、高性能のセンサー・ネットワークを展開することで、地震による振動を広範囲に監視できる。振動の情報をリアルタイムに取り込むことで、建造物の安全性を迅速に判断することもできるだろう。
MEMS技術を使ったセンサー技術が絶え間なく進化していることで、環境中のさまざまな情報を取得したり、周囲環境との相互作用を観測したりといった大きな変革がもたらされている。MEMSセンサーは、広範囲に多数配置したセンサー・ネットワークに必要な性能や寸法、コストを達成しつつある。これによって、センサー・ネットワークという重要なシステムの普及が促されることになるだろう。
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