「恋愛」が相互の想いでしか成立しないように、「英語」もまた「英語」に愛してもらわなければならず、そして、いかに残酷な結論であろうとも ――「英語」に愛されない者は、何をしても愛されない。どうでしょうか皆さん。何もかもリセットして、まずここからもう一度やり直してみませんか。
われわれエンジニアは、エンジニアである以上、どのような形であれ、いずれ国外に追い出される……。いかに立ち向かうか?→「『英語に愛されないエンジニア』」のための新行動論」 連載一覧
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日本人である皆さんの多くは、多分、英語を「愛したい」か、少なくとも「一度は愛そうとした」という方だと思います。「愛している」とまで言わなくとも、「英語をペラペラとしゃべりたい」、「英語を不自由なく使いたい」とか、「英語の著書を原文で味わいたい」、「洋画を字幕無しで楽しみたい」と、思ったはずです。
そして今まで、自分の収入に対して少なくない支出を、「英語」に貢いで……もとい、費やしてきて、今なお費やし続けていると思います。
そして、
その他、「聞き流すだけで英語が身につく」、「ヒアリングマラソン」、「24時間好きな時間にインターネットで英会話」など……。 さまざまな教材に手を出し、そのたびに激しい自己嫌悪と挫折を繰り返す。
これって、何かに似ていると思いませんか。
そして、合コンに出席する話を聞きつけては、その合コンに潜り込み、仕事の理由を作ってはさりげなく食事に誘ってみたり、それでも笑顔で「次の機会にね」と優しく言われて、―― そのたびに激しい自己嫌悪と挫折を繰り返す。これは、好きな人に振り向いてもらうために膨大な時間とお金を貢ぎ続ける、典型的な「片思い」そのものです。
比して、英語に「愛されている人」は、そもそも、生れた時から無条件に愛されているかのようです。例えば、「英語の辞書をめくりながら読んでいるだけで、楽しくて幸せだよね」とか、「英語の歌を口ずさんでいるだけで、意味も分かってくるよね」、「日本語の字幕は無くても、洋画の筋は理解できるよね」などです。
そして、以下の発言が、英語に愛されている人と愛されていない人の分かれ目、いわば「分水嶺(ぶんすいれい)」です。「英語なんて僕ら同じ人間が使う言語の1つなのに、『難しい』という言い方は変だよ」、「時間をかければ使えるようになるから、他の勉強と比べれば格段に楽だよ」……。
私はこのような人が、理屈を超えて嫌いです。何に腹が立つかと問われれば、このような人は本心からそのように思っており、「『英語』に『愛されない人』が存在する」という事実を全く理解できないからです。さらに性(たち)が悪いことには、そのような人は全く「悪意が無い」のです。
恋愛において、どんなに愛していても、どんなに振り向いてほしくても、それがかなわないことがあることを、私たち大人は、血を吐くほど泣いて、泣いて、泣いて、それはもう嫌になるほど、身に染みて体験してきました。もちろん、今、英語の学習を続けている子どもたちもまた、同じような体験を経ていくはずです。「恋愛」が相互の想いでしか成立しないように、「英語」もまた「英語」に愛してもらわなければならず、そして、いかに残酷な結論であろうとも ――「英語」に愛されない者は、何をしても愛されない。
どうでしょうか皆さん。何もかもリセットして、まずここからもう一度やり直してみませんか。
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