日本でよく聞かれる会話の1つに、「日本人が英語を使えないのは、至極当然のことで、英語を日常的に使っていないからだ」とか、「英語なんぞ、アメリカに1年も住んでいれば、簡単にペラペラになるさ」というものがあるようです。
事実、私もそのように信じていました。本連載の第1回でお伝えした通り、私には少なく見積もっても20回以上の海外出張や、米国に家族とともに2年間赴任した経験があります。それにもかかわらず、なぜ、私は今なお、「ペラペラ」になっていないのでしょうか。海外の仕事相手の話を、半分も理解できないのでしょうか。その理由を知りたいのは、他でもない「この私」なのです。この事実に対しては、「お前、本気で英語に取り組んだのか?」と問われる方がいると思います。もっともなことです。
(1)米国赴任前はもちろんのこと、米国赴任の2年間に、現地の家庭教師(ネイティブ)を雇い、現地の大学の英会話コースを受講し、英語教育に投資した金額は200万円を軽く超えている。
(2)まがりなりにも、現地で生きるため、住居探し、水道、電気、ガス、銀行といったインフラの契約についての交渉を、英語を使って自力で行った。
(3)全ての食べものを吐き、脱水状態でぐったりしている娘を救急病院に抱えこんで、ドクターのしゃべる英語の所見を、夫婦二人で全身を耳にして聴取し、娘の命を守るために全力を尽した。
結論として、英語については、もうこれ以上「真摯(しんし)」になれないほどに「真摯」であったという自信があります。妻や私が、米国赴任の2年の期間、「英語をペラペラとしゃべりたい」、「英語を不自由なく使いたい」と思い続け、それに反して、どれだけの失笑、苦笑、軽蔑、侮蔑に直面し、血の涙を流してきたことか ――。
それを語れと言われれば、5時間くらいはぶっ続けで語れます。家族全員で帰任の飛行機から降りて、項垂れ(うなだれ)ながら成田空港の入国審査の列に並んでいた時に、私はついに悟ったのです。
「片思い」では足りない。英語を使えるようになるためには、「英語」から愛してもらわなければならない。そして、いかに残酷な結論であろうとも 、「英語に愛されない私」は何をどうしようとも英語を使うことができない人間なのだ、と。
しかし、それは「私」だけなのか。「英語に愛されない人間」は私だけなのか。私だけがレアケースなのか、決してそうではないはずだ。この連載は、この「立ち位置」から出発したいと考えています。
好きになってくれない人を、一方的に追い回すことは「ストーカー」という反社会的行為です。しかし、この連載を読まれている、知的で、聡明(そうめい)で、それぞれの専門分野や企業で能力を発揮されている「エレクトロニクス界の知性」が、そんな「ストーカー」に堕(お)ちて良いものでしょうか。
そもそも、われわれは技術の分野で生きるエンジニアであるのだから、技術にこそ本分があるはずです。しょせん英語とは、われわれの仕事にとって付帯的な仕事の道具にすぎません。「私たちを愛してくれない英語」に、固執し追い回すことは美しい行為ではありません。「失恋したら別の恋を探せ」とは、どの恋愛書でも述べているところです。われわれは、今こそ、過去を清算し想いを立ち切り、「英語」を捨てる時なのかもしれません。
ところが残念なことに、われわれは、英語を放棄することができない ―― われわれのエンジニア生命に関わる ―― 重大で深刻な事情があります。この事情については、次回以降にお話させてください。
番外編「Twitter大嫌いな研究員が、覚悟を決めた日」も同時公開しました。こちらもどうぞ。
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江端智一(えばた ともいち)
日本の大手総合電機メーカーの主任研究員。1991年に入社。「サンマとサバ」を2種類のセンサだけで判別するという電子レンジの食品自動判別アルゴリズムの発明を皮切りに、エンジン制御からネットワーク監視、無線ネットワーク、屋内GPS、鉄道システムまで幅広い分野の研究開発に携わる。
意外な視点から繰り出される特許発明には定評が高く、特許権に関して強いこだわりを持つ。特に熾烈(しれつ)を極めた海外特許庁との戦いにおいて、審査官を交代させるまで戦い抜いて特許査定を奪取した話は、今なお伝説として「本人」が語り継いでいる。共同研究のために赴任した米国での2年間の生活では、会話の1割の単語だけを拾って残りの9割を推測し、相手の言っている内容を理解しないで会話を強行するという希少な能力を獲得し、凱旋帰国。
私生活においては、辛辣(しんらつ)な切り口で語られるエッセイをWebサイト「江端さんのホームページ」で発表し続け、カルト的なファンから圧倒的な支持を得ている。また週末には、LANを敷設するために自宅の庭に穴を掘り、侵入検知センサを設置し、24時間体制のホームセキュリティシステムを構築することを趣味としている。このシステムは現在も拡張を続けており、その完成形態は「本人」も知らない。
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