人間は長く走ることにかけてはどの種よりも優れており、獲物を追いかけ回して疲れさせ、倒れたところを捕まえた、という説もあります。痩せていることは、「十分に走り回ることができる」ことの証明であって、走り回れる人間こそが、生存競争に勝ってきたのです。私たちが、陸上競技会やバレエ、フィギュアスケートを好んで見ることは、そのためです。
(江端の所感)「痩身は、運動による『結果』にすぎない」→「運動できる(走れる)人類が生存競争を生き残った」という新しい観点の仮説だと思います。
人間が生き残るためには、痩せすぎ、太りすぎ、いずれも望ましくはありません。しかし、人類は、そのほとんどの時代を(現在の基準でいう)「痩せすぎ」の状態で過してきたと考えられます。従って、私たちは「太っている」人間を、同じ人類として認識できないのです。さらに、それだけでは足りず「醜い」とさえ感じてしまい、その反動で、「痩せる」という行為に走っているのです。
(江端の所感)「太っている人間=人間以外の生き物」という認識が遺伝子に組み込まれている、という斬新な説です(多くの方を激怒させそうですが)。
「太る」ことを選択した集団と、「痩せる」という選択をした集団を比較してみます。
「太る」ことを選択した集団は、生存できる個体数は、必然的に減少します。また、強者が弱者を排除し、少数精鋭の小さな社会となります。その一方で、「食べ物を分け合う」するという考え方がないので、他人の助力を期待できない社会であるとも言えます。
これは、出生から離乳、成人までに時間のかかる人類にとって存続を危うくします。
比して、「痩せる」ことを選択した集団は、1人当たりの食事量が少なくて済み、生存できる個体数も増加します。また、「食べ物を分け合う」という考え方は、社会性をはぐくみ、集団としての存続をより確実なものにするのです。
(江端の所感)一定の食料しかない状況で、「種」として最大利益を得るために「痩せる」ことを選択してきた、というゲーム理論に基づく見事な説です。
創作は人類だけが有する能力であり、自らの肉体を自らの意思で改造したいという欲望が、種の保存に有利に働くからです。
(江端の所感)楽しく読ませていただきました。ところで、最近の研究では、ネアンデルタール人(♀)が化粧をしていたことが分かってきたのですが、その話を聞いていた嫁さんが、私の服装を見て、「ネアンデルタール人ですら……」と、ため息をつきながらつぶやいていたことを思い出しました。
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