西欧社会では15世紀に至るまで、プトレマイオスの天動説「数学集成(アルマゲスト)」は絶対的な存在だった。だが、同書のラテン語翻訳版「数学集成の摘要」が誕生したことで、プトレマイオスの天動説を正しく検証できるようになった。そしてそれは、「数学集成(アルマゲスト)」に対する批判が始まるきっかけにもなったのである。
本シリーズの前回は、古代天文学の集大成である「数学集成(アルマゲスト)」を著した偉大な天文学者クラウディウス・プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus、83年頃生〜168年頃没)の不正疑惑をご紹介した。プトレマイオスの紀元2世紀から話題は一気に15世紀〜16世紀に飛ぶ。すなわち「数学集成」の天動説から、地動説「天体の回転について」をコペルニクスが1543年に出版した時代へである。
現代の宇宙観はプトレマイオスの天動説(地球中心説)ではなく、太陽を中心とする地動説(太陽中心説)である。その始まりは、16世紀前半にポーランドの天文学者にしてカトリック司祭のニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus、1473年2月19日生〜1543年5月24日没)が地動説を提唱したことによる、とされている。
しかし地動説(太陽中心説)を唱えた学者は、コペルニクスが初めてではない。紀元前3世紀の古代ギリシアで天文学者のアリスタルコス(Aristarchus、紀元前310年頃生〜紀元前210年頃没)が地動説を提唱していた。しかしアリスタルコスの説は強い批判を受け、古代ギリシアから古代ローマの時代は天動説が広く受け入れられることとなった。
アリスタルコスの地動説が受け入れられなかった理由は分からない。しかし、推測は可能だ。どの時代かにかかわらず、人々が地動説、すなわち太陽の周囲を地球が回っていることを実感することは、まずない。現代でも人々が空を見上げて目にするのは、「地球の周囲を回っている太陽と月、その他の天体(恒星と惑星)」であり、日常の感覚からは天動説(すなわち自分たちの世界を中心とする説)が非常に受け入れやすい。天文学者ではないわれわれが地動説を信じているのは、学校教育の成果である。
16世紀前半に地動説(太陽中心説)が登場したのは、天体観測の結果を定量的に説明しようとコペルニクスが思考を重ねたからだ。この時代に信じられていたプトレマイオスの天動説「数学集成」では、実際の天体観測との誤差が観測機器の精度では説明不可能なほどに大きいことに、コペルニクスを含む観測天文学者が気付いたのである。つまり、既存の学問(学説)の正確な理解と批判があり、既存の学問を乗り越えることで新しい学問(学説)が生まれるという、学問の転換がなされた。
ところが中世の西欧社会では、乗り越えるべき学問(学説)がきちんとした形では存在せず、従って新しい学問が生まれることもなかった。言い換えると、15世紀に至るまで、西欧社会ではプトレマイオスの天文学書「数学集成(アルマゲスト)」は絶対的なものとしてあがめられてはいたものの、内容に関する学問的な理解が伴っていたわけではなかった。
学問的な理解(特に数学的な理解)が可能であり、なおかつ原典のギリシア語ではなく、西欧の知識人にとって読みやすいラテン語の「数学集成(アルマゲスト)」が登場するのは、15世紀後半のことになる。このラテン語版「数学集成」の誕生が、天動説、すなわち「数学集成」そのものを否定するとともに、新しい学説、すなわち地動説へと結びついていく。
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