昔も今も、シリコンバレーでは数多くのベンチャー企業がしのぎを削ってきた。日本からはなかなか見えてこないであろう、これらの企業を、今回から複数回にわたり紹介する。まず取り上げるのはPCの周辺機器を手掛ける大手メーカー、ロジテックだ。今では世界中で事業を展開する同社だが、このような成長を遂げられることになった影には、ある日本メーカーの存在があった。
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前回までに、シリコンバレーのイノベーションエコシステムには、「大学/研究機関/企業」「起業家(ベンチャー企業)」「ベンチャーキャピタル」という3つの要素があることを紹介した。このエコシステムが上向きのスパイラルで成長し、シリコンバレーではGoogleやFacebookといった華々しい成功を収めるベンチャーが誕生する土壌を形成していった。一方で、そのように大成功したベンチャーの足元には、芽を出せぬまま消えていった幾多ものベンチャーがあることにも触れた。
シリコンバレーといえど、常に上昇気流だけが吹いてきたわけではない。2000年のネットバブル崩壊や2008年のリーマンショックなどの影響は、シリコンバレーにも少なからず及んだ。これらの時期には、ベンチャーの数はさすがに減ったが、現在は回復基調に向かっている。
そこで今回から複数回にわたり、シリコンバレーのベンチャーに焦点を当て、日本からはなかなか見えないであろう、ベンチャー企業の盛衰を紹介したい。
まずは、第9回「Googleが育った小さな建物は、“シリコンバレーの縮図”へと発展した」の最後に少しだけ紹介したLogitech(ロジテック、日本ではLogicool(ロジクール))を取り上げたい。マウスやキーボード、Webカムなどを手掛けるメーカーである。
その時にも書いたように、ロジテックの3人の創立者のうち、ダニエル・ボレルとピエルイジ・ザパコスタは、1976年から1978年にかけてスタンフォード大学のコンピュータサイエンス学科で筆者の同級生であった。当時はちょうど、スティーブ・ジョブズらが設立したAppleが「Apple II」を発売した時期でもあり、われわれは皆、新しいコンピュータに大きなカルチャーショックを受けた時代でもあった。
そうした背景にあり、ボレルとザパコスタは、スタンフォード大学を卒業したら起業したいという気持ちが強くなっていったようだ。そこで彼らは、ボレルの生まれ故郷であるスイスのApples(アップル)という小さな村に会社を設立した。1981年のことである。もともとは、ソフトウェアの事業を行いたかったので、フランス語でソフトウェアを意味する「Logiciel(ロジシエル)」という社名を考えていた。だが、既に他の社名として登録されており、使うことができなかったので、「Logitech」となったのである。
そして同じく1981年、カリフォルニア州パロアルトにある小さな建物にオフィスを構えた。この「小さなオフィスビル」をきっかけに、カリフォルニア州サニーベールにある「Plug & Play Tech Center」が誕生することになったのは前述の通りである(第9回参照)。
こうして始まったロジテックだが、最初のうちはお世辞にも順調とはいえなかった。当時は、オフィスコンピュータ(いわゆる「オフコン」)が導入され始めた時期で、ロジテックは、そこに搭載されるワープロ向けのソフトウェアなどを開発していたが、ほそぼそとした仕事は依頼されていたものの、なかなか大きな受注にはつながらなかったのである。
同じころ日本では、汎用コンピュータの周辺機器や端末機器として「データショウ」や「エレクトロニクスショー」などの展示会が、毎年開催されていた。
ある年の展示会、リコーは縦型のワークステーションを展示する計画を立てていた。だがリコーは課題を抱えていた。ワークステーションに必須の機能であるワープロ用のソフトウェア開発技術を持っていなかったのだ。
一方、実は1981年にスイスでロジテックを設立する前、3年ほど、ボレルとザパコスタはスイスでBobstという印刷会社のために、ワープロのソフトウェアを開発しており、その実績が当時のリコーの担当常務の目にとまった。そして、そのソフトウェア開発をロジテックに発注したのである。
実は、もう後がないくらいのところまできていたロジテックにとって、リコーからの受注は、まさに救いの一手であった。
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