今回は、働き方改革のうち「障害者の雇用」に焦点を当てます。障害者雇用にまつわる課題は根が深く、これまで取り上げてきた項目における課題とは、少し異質な気がしています。冷徹にコストのみで考えれば「雇用しない」という結論に至ってしまいがちですが、今回は、それにロジックで反論してみようと思います。
「一億総活躍社会の実現に向けた最大のチャレンジ」として政府が進めようとしている「働き方改革」。しかし、第一線で働く現役世代にとっては、違和感や矛盾、意見が山ほどあるテーマではないでしょうか。今回は、なかなか本音では語りにくいこのテーマを、いつものごとく、計算とシミュレーションを使い倒して検証します。⇒連載バックナンバーはこちらから
さて、いきなりですが、今回は、私の試みた思考実験の話から始めたいと思います(以下は全て架空のお話ですので、ご安心(?)ください)。
私は会社での引越しのさなか、脚立を使って荷物を運んでいる時、ダンボールに視界をふさがれて脚立を踏み外し、そのまま背中から落下しました。
この時、床の上に置いてあったパソコンによって脊柱(私の場合、腰椎)に強い衝撃が加わり、脊髄に損傷をうけました。その結果、脊髄が横断的に離断し、神経伝達機能が完全に絶たれた状態、「完全型脊髄損傷」となりました。
脊髄を含む中枢神経系は末梢神経と異なり、現在の医療技術をもってしても、一度損傷すると修復・再生されることはありません。
私は、腰から下の全ての運動機能と感覚を失いました。排便、排尿はもちろん、汗をかく、鳥肌を立てる、血管を収縮、拡張させるといった一切の生体調節が機能しなくなりました。
私は知らなかったのです。
――人間とは、何の前触れもなく、こんなに簡単に、一瞬のうちに、健常者から障害者になってしまう
ということに。
この事実にがく然とし、絶望の中で、最初に行ったことは、私と同じような目に遭った「同志」を探すことでした。そして、驚くべき事実を知ったのです。
現在日本には10万人以上の脊髄損傷者がいて、交通事故、高所からの落下、転倒、スポーツによって、毎年5000人以上が新たに肢体障害者になっています。
年間5000人 ―― 日本の交通事故死亡者数より多く、しかも、この5000人は、物理的な事故による人の数だけです。脳溢血などの脳障害なども入れれば、もっと多くの人が肢体障害になっているはずです。
現在、国内の肢体不自由者は181万人と推定されています(参考)。この数値から、電卓をたたいて簡単な計算をした結果、毎年約3.2万人もの人が、新たに肢体障害者になっていると推定できました。
自分が障害者になって、私は初めて、『障害者となる前の私と、障害者の人との距離は、1ミリにも満たないほど近かったのに、私の障害者に対する知識や理解は、絶望的なまでに遠かった』ことに気が付きました。
そして私は、これまで、たまたま「”障害者”と呼ばれない者」であり、たまたま「"障害者への待機状態"にある者」にすぎなかったことを、思い知ることになったのです。
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しかし、歩行や排せつは自分1人でできなくなっても、私の思考力や、技術に対する情熱が衰えたわけではありませんでした。私は、車椅子を使って自宅と会社を往復し、これまでと同様の業務を続けるつもりでいました。
ところが、私が会社に復帰する日を連絡したところ、驚くべき回答が返ってきたのです。
「江端さん、もう会社に来なくてもいいです」
―― え?
会社:「江端さんには、労災としてお金が支払われますし、それとは別に、会社としてもそれなりのお金を支払います。また、身体障害者福祉法に基づき、国からお金も支給されます。江端さんとご家族が、これから生きていく為の最低限の保証はされると思います」
江端:「いや、そうじゃなくて、私は出社して働きたいのです。私は……確かに、特別優秀でもないし、リーダシップもないけど……それでも、特許明細書を量産することができるし、実験検証用のプログラムを短時間で作成することができる技術者です。会社にとって、雇用し続ける価値があるはずです」
会社:「ええ、江端さんの技術者としての価値は認めます。実際、これまで会社に貢献して頂いたと思っています」
江端:「それなら……」
会社:「しかし、江端さんの重度の障害がある人用に会社の設備を整備するコストと、その支援をする人材のコストを考えると、江端さんのその特異な能力でも、全然ペイしないのですよ」
江端:「!」
会社:「江端さんの発明の才能……ですか? 例えば、江端さんほどの奇抜なアイデアがなくても、特許ライターを10人くらい外注すれば、十分に江端さんの特許明細書1本を超える価値にはなると思うのですよ」
江端:「……」
会社:「会社が、肢体障害者となった江端さんを雇用する、労働力としての江端さんの圧倒的な価値って、ありますか?」
江端:「では一体、我が社のどこに、そんな圧倒的価値のある人物がいると言うのですか!」
会社:「その通りです、江端さん。社長から新卒社員に至るまで、そんな人はどこにもいません。しかし、今の江端さんには、圧倒的な負のコストがあるのです」
―― そもそも、江端さん、いつも会社のやり方に文句言っていたじゃないですか。もうこれ以上、無理して働かなくてもいいのですよ。
―― 江端さんが出社しなかったとしても、江端さんも、会社も、社会も誰も不幸になりません。お金(コスト)も最小限に抑えられます。
―― このロジックのどこかに瑕疵(かし)がありますか? 見事なほどのWin-Win-Winができているじゃないですか。
―― 大体、江端さんは、ご自分のコラムで生産性やらコストについて冷徹な計算をし続けてきた、当の本人じゃないですか? 一体、江端さんは何が不満だというのですか?
上記の話は、もちろん私の創作ですが、書いているうちに、どんどん悲しくなって、悔しくなって、涙が出てきました(「バカじゃないか?」と思われるかもしれませんが、本当です)。
この思考実験の後、私は自問自答を繰り返してきました ―― このように理詰めで説明された時、私は、悟ったような、全てを諦めたような顔をして『そうだね』と、微笑みながら答えるべきなのだろうか、と。
私たちは、上記のような落下事故、転倒、交通事故によって、一瞬で身体障害者になります。さらに頭部を強打すれば、記憶や知能が低下する知的障害者にもなります。
ブラック企業の話を出すまでもなく、うつ病、パニック障害、統合失調症などの病気と私たちは常に隣り合わせであり、いつでも私たちを精神障害者にするべく襲ってくる状態にあります。これについては、もう、このシリーズ(特に、「人身事故」とこの「働き方改革」シリーズ)で、うんざりするほどお話してきました。
昨年、5000人の脊椎損傷者となってしまった人に、または、今年新たに、その5000人の脊椎損傷者となる人に対して、私たちは「一体、あなたは何が不満だというのですか?」と、尋ねなければならないのでしょうか。
「今日、障害者となっていたかもしれない私とあなた」は、このように社会から排除されるロジックを、やすやすと受け入れることができるでしょうか。そして、「明日、障害者となるかもしれない私とあなた」は、このロジックを看過しておいて良いのでしょうか。
――冗談じゃない。私は、嫌だ。
何がWin-Win-Winだ。そんなこと私の知ったことか。私は望んで障害者になった訳ではない(私だけでなく誰もがそうだ)。それに、私は「仕事で嫌なことがある」とは言ったが、「仕事をしたくない」などとは一言も言っていない。
私は、私自身であり続けるために、働き続けたいのだ ―― たとえ、それが社会全体のコスト評価関数の最適解でないとしても、「個人がその個人の望む生き方を諦めさせる」ことが変数の値域に入っているような評価関数なら、それは評価関数の方が間違っている。
そして社会は「私自身であり続ける為に、働き続けたいのだ」という人間がいれば、その最後の一人まで助けること ―― それが今すぐに完全に実現できないとしても、例えば、その実現にあと100年間かかるとしても ―― 何度ダウンしても、その度に立ち上がって、ファイティングポーズを取り続ける社会を、私たちは目指さなければならないはずです。
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