欧州の半導体大手STMicroelectronicsを誕生させた功績を持つPasquale Pistorio氏がイタリア・ミラノにおいて89歳で死去した。本稿では、同氏の歩みとその功績を振り返る。
欧州の半導体大手STMicroelectronicsを誕生させた功績を持つPasquale Pistorio氏が、イタリア・ミラノにおいて89歳で死去した。
伝説的なエンジニア兼経営者だった同氏は、イタリアの半導体メーカーSGSとフランスThomson-CSFの半導体部門を合併し、その後約20年間でこの合併企業を欧州の半導体大手メーカーに成長させたという実績で広く知られている。
また同氏は、半導体業界において、“生態学的に持続可能な製造”といった環境保護運動を最初に提唱したリーダーの1人でもあった。さらに、『デジタル格差』問題の解決にも強い関心を持ち、デジタル格差の克服に尽力する国連情報通信技術タスクフォース(United Nations Information and Communications Task Force)のメンバーも務めた。
Pistorio氏は、「イタリアの奇跡」と呼ばれた時代にそのキャリアをスタートさせたが、その当時、エレクトロニクスは全く注目されていない分野だった。シチリア生まれの同氏は、1963年にPolytechnic University of Turin(トリノ工科大学)の電気工学部を卒業した後、トリノから30kmの距離にある大手企業Olivettiの研究開発エンジニアとして働きたいと考えていた。
しかし、Pistorio氏の知り合いの1人で、Motorolaのトリノ担当代表だったJulio Colombo氏は、Pistorio氏が社交的だったことから、営業で優れた成果を上げられるのではないかと考えた。そこで、Pistorio氏に月給15万イタリアリラ(現在では約100米ドル相当)の仕事をオファーし、説得したという。Motorolaはその当時、ディスクリートトランジスタやダイオード整流器、パワートランジスタ、初期の集積回路(IC)などを提供していた。
その1年後、Pistorio氏はミラノに移り住み、Motorolaのイタリア国内販売店で働くことになった。Motorolaが1966年にミラノで自社オフィスを開設すると、Pistorio氏はその翌年に、トランジスタの営業担当者としてMotorolaに加わった。
同氏はMotorolaにおいて長年にわたり出世街道を進み、1977年7月にインターナショナルマーケティング部門担当ディレクターに任命され、米国アリゾナ州フェニックスに移り住む。
その翌年にはMotorolaの国際半導体事業部門のゼネラルマネジャーに昇進し、米国以外の全地域の設計/製造/マーケティング活動の責任者となった。
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