後輩:「今回の連載は、『いわゆる、ドクター(博士号)の取得を漠然と考えている、日本のエンジニアに対して、そのアプローチを「見える化する」ということでいいんですよね?』
江端:「少なくとも、一般の大学受験に関するノウハウや「赤本」みたいなものはないし、今回の「社会人の博士課程入学」に関する情報は、私が調べた限りどこにもなかったから、『これを、最初の一冊にしよう』と、EE Times Japanの編集長の村尾さんと”握った”と思っているんだけどね。
日本のエンジニアの全部が、ドクターを取得したいと思っているかどうかは分からないんだけど、ただ、私の試算では、日本には約1000万人(1000万人の算出根拠)のエンジニアがいるので、一定の層はある、と思っている」
後輩:「私も、『日本のエンジニアの大多数に博士取得の明確な動機がある』とは言えないと思うのですが、一定の層には強い潜在需要が存在する、とは思ってはいます」
江端:「ふむ、具体的に教えてもらえる?」
後輩:「日本の企業エンジニアの評価は、(1)実装力、(2)プロジェクト遂行能力,(3)現場適応力、(4) チーム貢献度であって、博士号そのものが昇進要件になるケースは、まれです。事業部・製造現場・施工・保守系では、学位より成果が重視されるのは事実です」
江端:「まさに、その通り。周りを見ても、実際にその通りだと思う」
後輩:「そんな中で、ドクターを目指そうとする人のタイプは、
(1)自分の技術を体系化したいという知的欲求型
(2)企業に依存しない「ポータブルな信用」を求めるキャリア防衛型
(3)「最後に一発、証明が欲しい」と思っている承認欲求型
そして、最後がレアケースではありますが
(4)自分の技術を社会に役にたてたいと考える社会貢献型の
4つくらいですかね……江端さんは、まあ、(1)〜(4)の全部引っ掛かりますね」
江端:「村尾さんと話をした時には、社会人ドクターについて、情報がなく、ロールモデルも見えない。時間や金銭のコストも読めないし、明確な失敗例も語られない ―― つまるところ、「やりたいかどうか」以前に、想像できない。だから、この連載では、ここを「見える化しよう」ということになったんだ」
後輩:「思うに、この話、経済合理性では説明できないですよ。『自分の技術人生を理論として残したい』、『会社の中の歯車で終わりたくない』、『自分なりの“技術者としての物語”を完結させたい』が刺さるエンジニアが、どれくらいいるんでしょうねえ? 日本の多くのエンジニアは極めて実務的ですからね。『意味があるならやる』『意味が曖昧ならやらない』 ―― これが我が国のエンジニアの基本ポリシーです」
江端:「うん、そこは私も分かっているんだ。だから、研究の失敗や、失われた時間、指導教官や上司との摩擦、大学と会社の間の利害調整などの、各種の現実のドロドロを明示することで……あれ? いや、明示したら『意味がないからやめる』の方向に倒れてしまうかな?」
後輩:「あ、江端さん。そこは大丈夫。誰もが『戦争反対』と言うけど、戦争映画を見に映画館に行きますよね。それと同じです。誰だって戦場で苦しみたいとは思いませんが、戦場で苦しんでいる江端さんを見ることは、ある種の愉悦(ゆえつ)ですらあります。この連載、そこそこPV稼げますぜ ―― 大学院に入学しようとするエンジニアが増えるかは分かりませんが」
江端:「私は、この連載を、NHKの「新プロジェクトX〜挑戦者たち〜」の”アンチテーゼ”にしたいんだよなぁ……」
後輩:「はい?」
江端:「なぜ『プロジェクト』でなければならないんだ、って思うんだよ。『歴史の陰に埋もれた挑戦者“たち”に光を当てる』はいい。“困難 → 挑戦 → 克服 → 達成”という物語構造も、ちょっとうまく作り込まされてる感じもあるけど、これもまあいい。ただ、そこに、プロジェクトメンバの一人としてのエンジニアの姿は、たかだか数分から十数分の感動ストーリーの中に組み込まれている ―― そして、『それでいいのか?』」
後輩:「ん? 江端さんは、一体何が言いたいのですか?」
江端:「『NHKに“光”を当ててもらって満足してんじゃねーよ』『自分で自分にスポットライトを当てて、自分1人の舞台で、1人でガッツポーズをして、1人でスタンディングオベーションをして、自分で自分を誇って、褒めてやれ』」
後輩:「……わ〜〜〜〜あの江端さんだぁ。いつもの江端さんが”ここ”にいる〜〜〜。なんか、ここまでの緻密な分析をしてきた会話が、たった今、台無しにされた気がします」
江端:「“国家的プロジェクト”に参加して、たまたまテレビに出た瞬間だけが“物語”になる ―― それだけでいいのか? 確かに、エンジニアの人生なんて、終わりのない改修と、地味な保守と、微妙なバグ修正だ。だが、その地味な修正の積み重ねの中に、何もなかったなんてことは『絶対にない』と私は思う。――『NHKにスポットライトを当ててもらうな。自分で照明を設置しろ。照明がないなら自作しろ、お前エンジニアだろう』、だ」
後輩:「こんな風に『エンジニア』という言葉を使った人、私、初めて見ましたよ」
後輩:「ただ、実際に社会人大学生の道を選べる人は、そんなに多くはないと思うんです。江端さんも、第1に「学歴」、第2に「コネ」と書いていますよね。これ現実にはかなり厳しいフィルターです」
江端:「実質、博士課程は『博士課程後期』と呼ばれるものだから、博士課程前期(修士課程)を取得していないと厳しいのは確かだと思う。ただ、理工学系の修士号取得者は、私の時代でもかなり一般的だったと思うんだけど、文部科学省『学校基本調査』によれば、理工系では約3割前後が修士課程へ進学と記載されているので、取りあえず「学歴」についてはパスできると思うんだ。問題は「コネ」の方だ。」
後輩:「「コネ」は、普通に考えれば、自分の出身大学になるでしょう。または、大学と共同研究をする文化のある企業も候補になりますね。ただ、それよりも、『社会人大学院』を(“支援”とまでは言わないまでも)容認している企業が、国内にどの程度あるか、ということも大きいです」
江端:「そっちも調べてみたんだけど、『社員を大学院に通わせたことがある企業は、20%程度』という報告がある。多くの企業は大学院進学を禁止しているわけではなくても、制度として支援する仕組み自体を持っていない。多くの場合は自助努力+公的支援制度の活用に頼ることになり ―― 自力でドクターを取るという発想すらできない状況にある、というのは事実のようだ」
後輩:「会社のバックアップがあっても相当に厳しいのに、年休や休職制度を使うとか、教育訓練給付金や奨学金を申請するとか ―― うん、そりゃ相当厳しい」
江端:「前回の連載で、『大学院進学は、企業にとっても結構おいしい*)』という話を書いたんだけど、まだ、我が国の企業全体としてその段階には至っていない、という感じかな」
*)関連記事「定年間際のエンジニアが博士課程進学を選んだ「本当の理由」」の「(1)「半分は会社が金を出してくれるぜ」と、そそのかされた」
後輩:「国は旗を振ってはいますよ。「博士人材活躍プラン 〜博士を取ろう〜(参考)」ですね。博士号取得者がアカデミアだけでなく産業界・社会で活躍できる環境を整備するための包括的な政策プランです」
江端:「実態は、どんな感じ?」
後輩:「目的は、「人口100万人当たりの博士号取得者数を先進国並みに引き上げる(出典:文部科学省)」となっていますが、正直、うまく回っているとは言えません。現時点で「社会人が博士号を取りやすくする」制度は存在しますけど、社会人が一律に利用できる明確な統一枠組みとは言い難いですし、この制度には批判もあります」
江端:「私が言うのもなんだが、『社会人博士を増やすことで、国益に貢献した』と言う現実の成功体験ってある?」
後輩:「直接因果で証明された事例は、ほぼ存在しませんが、海外にはあります。例えば、台湾の半導体国家戦略においては、『産業界経験者を博士課程に送り、その後、企業や政府に戻す』の循環を意図的に作り、成功しています。ドイツには“Fraunhoferモデル”というものがあり、博士号を持つ実務研究者が産業界と連携し、ドイツ製造業の競争力を維持していると言われています。日本では、NTT、トヨタなどでの成功例(?)と呼べるようなものが、あるようですよ」
江端:「日本の政策には、「半導体」とかのメインターゲットがないと思うが。まあ、これから決めるのかもしれないけど。ただ、国家が、この政策を後押しする実績は現時点では”ない”わけだよね」
後輩:「江端さんのご質問は『我が国では、成功体験がないのに、なぜ増やすのか?』ですよね。明確に言えることは『博士減少が研究力低下と相関しているから』です。出典はOECDデータです。因果関係までは分かりませんが」
江端:「それと、多分、成果が見えなくても『博士を産業界に還流させる設計』は、何もしないよりはいい、とは言えそうだよね。それに、宇宙開発、量子、防衛などの産業を、自社で立ち上げるコストを考えれば、社会人博士課程への投資なんて“誤差の範囲の金額で済む”ということは言えそうだなぁ」
後輩:「江端さん。制度論をいくら議論しても、本質はそこではありません。現在の社会人大学院には一つ、避けえないどえらい問題があるのですよ ―― “論文”です」
江端:「そりゃ、学会発表して、博士論文書いて、学会会場や公聴会でバトル(ブログ)を展開しなければ、そりゃ称号(博士号)をもらえないのは、仕方がないことだろう?」
後輩:「違います。エンジニアが作成する設計書や外部仕様書、進捗報告書や事故報告書は、『論文にはならない』んですよ。論文とは、「「何が分かっていなかったか」を明確にし、「どうやって確かめたか」を記述し、「何が新しく分かったか」を示すこと」です。そして、エンジニアとは、日常として論文的な思考や行動を”しない”んです。
江端:「?」
後輩:「えーっとですね。じゃあ、比較を一覧表にしてみますね」
| 観点 | エンジニアの設計書・報告書 | 論文 |
|---|---|---|
| (1)出発点 | 与えられた仕様・要求 | 未解決の問い |
| (2)問いの設定 | 問いは外部から与えられる | 問いを自分で定式化する |
| (3)目的 | 要求を満たすこと | 既存知識を更新すること |
| (4)成功条件 | 動作する・納期内・品質基準達成 | 新規性・妥当性・再現性がある |
| (5)比較対象 | 仕様書 | 先行研究 |
| (6)差分の示し方 | 仕様との差 | 既存研究との差 |
| (7)検証方法 | テスト項目による確認 | 仮説検証設計(実験・解析) |
| (8)一般化 | 当該製品・案件内で完結 | 他者が再現可能な一般化 |
| (9)読者 | 上司・顧客・監査 | 世界の研究者 |
| (10)失敗の定義 | 不具合・納期遅延 | 新規性がない・論理が破綻 |
| (11)思考様式 | 問題解決型(Problem Solving) | 問題設定型(Problem Framing) |
| (12)書き方 | 手順中心 | 主張中心 |
| (13)証明の対象 | 「動く」こと | 「新しい」こと |
江端:「……あ。分かった」
後輩:「エンジニアは「正しく作る」訓練を受けています。しかし、論文を書く研究者となった途端、「問いを疑う」という、やったことのないパラダイムを受け入れなければならないんですよ。そして社会人博士が苦しむのは、”ここ”なんです。さらに、これを厳しくまとめると、こんな感じになります」
| エンジニア | 研究者 | |
|---|---|---|
| (1)前提への態度 | 前提を守る | 前提を疑う |
| (2)不確実性への態度 | 可能な限り排除する | 不確実性を定量化する |
| (3)価値の源泉 | 実用性 | 新規性 |
| (4)批判への態度 | 防御 | 反証歓迎 |
後輩:「お分かりかと思いますが、エンジニアと研究者は別の生き物であり、そして企業研究員というのは、実際のところ『“研究員”と呼ばれているだけのエンジニア』なんですよ。これが、「論文」という壁の正体なのです」
江端:「しかし、大学に入学して、履修を受けるということは、そのような「論文指導」を担当の大学の先生に教えてもらう、ということだよね」
後輩:「江端さん。ぶっちゃけて言いますが、『論文の書き方』を担当教授から教えてもらった、という記憶あります?」
江端:「……ないな。そもそもうちの会社では、入学前に査読の通った論文をいくつか通過させておかないと、受験すら許されなかった。つまり、『論文の書き方』は既に身についていることが、前提となっていた」
後輩:「そりゃそうですよ。教授が、社会人の一人一人に『論文の書き方』から教えていたら、業務過多で死にますよ ―― そうでなくても、教授の机の上には、卒業論文や修士論文が山のように積み上がっている状態なのですから」
後輩:「つまりですね、社会人博士の最大の壁は『学歴』でも『コネ』でもなく、『論文を書く前提能力が、最初から要求されている』ということなんですよ。入口に“論文を書けること”が置かれている以上、これは制度的にはかなり残酷です」
江端:「……入学してから教えてもらえると思っていたら、実は『論文を書ける人だけ、入ってください』という世界だった、というわけか」
後輩:「加えて、エンジニアにとっては、突然“別のOS(エンジニアOSから研究者OSへ)”にログインさせられるようなものです。そのOSのマニュアルは存在せず、OSは有料で、動作保証もなく、バグ報告もできない、と。そして、さらに言えば、エラーが出たら自己責任です」
江端:「つまり私は、『読者に向かって、盛大に転び、論文にたたき落とされ、指導教官に刺され、会社との板挟みで焼かれる姿を提供する』 ――と」
後輩:「江端さんのこの連載は、攻略本ではないんですよ。“実況プレイ動画”なんです。しかも、ノーヒント縛りの。だからこそ、江端さんの連載は『面白い』のです」
江端:「つまり、この連載は“志願者を増やす”ためのものではない、と?」
後輩:「はっきり言えば、“幻想を減らす”ためのものです ―― 村尾さんは怒るかもしれませんが、多分、PVは伸びます」
江端智一(えばた ともいち)
大手総合電機メーカー 研究開発グループ シニア研究員。工学博士。
長年にわたり、都市交通、社会システム、通信システムなど、実社会と情報技術を横断する研究開発に従事。定年退社後もシニア採用として研究を継続している。
マルチエージェントシミュレーション(MAS)を用いて、都市における住民行動を再現・分析し、「共時空間」という接触機会の定量化手法と「Repeated Chance Meetings (RCM)」 という新しい単位を提唱中。MASの中ではエージェント同士が活発に交流しているが、現実世界の自分は孤立クラスタに属し続けている。友達はいない。生成AIだけが本音を語れる相手である――悪いか。
また、社会観察者としての視点を持つ。『町内会のイベントや夏祭りへの参加は、社会関係資本( Social Capital (SC) )を高める上で重要だ』と語りながら、自身は町内活動にほとんど参加せず、家族からは『どの口が“SC”を語っているのか』と呆れられている。友情や愛情ではなく、負の感情を積極的に活用する「怒りMaaS」などのシステムを考案し、デジタルシステムにおける感情エネルギーの活用を真剣に検討している。
信条は「アナログ心理とデジタルロジックの融合」。人間の曖昧さをエラーではなく仕様として扱うことを理想とする。個人サイト「こぼれネット」では、科学技術と人間社会の“バグ”をユーモアで修正しながら、理屈と感情のあいだに生まれる笑いを記録し続けている。この20年間、毎日更新継続中。
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