われわれ英語に愛されないエンジニアが海外に出張する上で、「最大の難所」とも言える場所――。それが入国審査です。今回の実践編(入国・出国)では、海外出張に行くあなたを「たった一人の軍隊」とみなし、敵国(=出張先)に首尾よく潜入(=入国)する方法についてお話しましょう。入国審査で使える“レジュメ”も紹介します。
われわれエンジニアは、エンジニアである以上、どのような形であれ、いずれ国外に追い出される……。いかに立ち向かうか?→「『英語に愛されないエンジニア』」のための新行動論」 連載一覧
私が大学4年生の時の話です。私が所属していた大学の電気工学科において、求人倍率は200倍でした。
本当に厳しい時代だったのですよ――企業側にとって。
この「200倍」とは、大学卒業予定者一人当たり、200社からの求人があったという意味です。当時の理系学生の就職状況は「モテモテ」なんて、甘っちょろいレベルではありませんでした。研究室はもちろん、下宿でも、企業からの執拗な勧誘の電話に悩まされていたというくらい、理系人材の凄まじい争奪戦が繰り広げられていたのです。
これは、1980年後半から1992年までの、いわゆる「バブル」といわれていた時代の、本当にあったお話です。
この時代に海外旅行ブームが到来し、日本人の多くが海外旅行に行くようになりました。
このブームが来る前は、海外に出掛けることは、1つのステータスシンボルでした。まず、英語が使えることという条件だけでなく、お金持ちであることが要求されたのです。なにしろ、米国往復の航空券だけで100〜150万円かかり、1米ドルが360円に固定されていた時代です。今の感覚なら、ハンバーガ、シェーク、ポテトのセットで1200円くらいでしょうか。当時の「円」は、現代に比べると、めちゃくちゃに安かったのです。
その一方で、「アメション」という言葉がありました。これは、「アメリカへ小便をしに行った」という蔑称です。
戦後占領下の日本では代議士、芸能人といった著名人が箔(はく)をつけるため、続々と米国へ渡りました。帰国後、「米国へ行った」という、ただそれだけのことで「国際政治や国際文化などの事情通」のように振る舞う人に対して、最大級の皮肉とやゆを込めて使われました(前回の連載で、「インド一人旅」で箔を付けようとした私も似たようなものです)。
さて、話をバブルの頃の海外旅行の話に戻します。
何のテレビ番組だったか忘れましたが、入国審査の状況のシーンが映し出されていました。そこには、「渡航目的は?」「滞在期間は?」「滞在するホテルは?」といった、入国審査官が尋ねる英語の質問全てに答えなかった学生(女性のグループ)の映像が流れていました。この番組の趣旨は明快でした。世界中どこにでも日本人が出没し、そして、インターナショナルにトラブルを撒き散らしている、ということを言いたいものだったのでしょう。しかし、その時の私の感想はまったく違うものでした。
普通の人であれば、飛行機の中で入国審査に思いをはせて心配になり、一夜漬けならぬ、数時間漬けの「場当たり英語」を暗記しようとしてしまうものです。私などは、それでも足りず「場当たり現地語」まで練習しました。少なくとも、中国語、タイ語、ネパール語、ドイツ語の「こんにちは。よろしくお願いします」は、入国審査までには確実に覚えたものです。
しかし彼女たちは違いました。「え〜、アタシ、分かんな〜い」と言っていれば何とかなり、そして、事実100%なんとかなってきた、その日本独自の(バブル時代にのみ通用し、かつ彼女たちの年齢以外では使えない)コミュニケーション手法を、全く臆することなく、インターナショナルでも展開していたのです。
そして、彼女たちのスタンスは、海外にあってその国の入国に関する全権を付託されている役人の前においてすらも全く揺るぎがありませんでした。
――これこそが、真の漢(おとこ)である。
「私たちは、外貨(円)をあなたの国に落としに来た『上客』よ」という認識に基づけば、むしろ海外の審査官は「日本語で質問してくるべき」とも考えられます。
「お客様は神様です」という日本独自の価値観を、そのままストレートに外国においても展開するその彼女たちは、真に賞賛に値します。この彼女たちの価値観こそが、グローバル化で完璧に出遅れている、我が国の最後の希望ではないか、とすら思えてくるのです。「英語に愛されないエンジニア」の一人としては。
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