ちょっと古い話になりますが、2016年06月21日に放送された、ガイアの夜明け、「新たな"プロ"の育て方」では、
が紹介されていました。
また、同じ時期に、
の記事も出ていました。
私は、その番組や記事を見て『やっと、ここまで来たか』と感無量になったのを覚えています。
常々、私は、「まずは皿洗いから」「技は教えない」「目で見て盗め」などというばかげた日本の職人育成方式を、絶望的な気持で見ていたのですが、この番組を見て、少し希望が湧いてきました。
特に、上記の「ラーメン学校」では、フラスコ、試験管、そして、各種の計測装置を使って、同じ味を完全に再現できる技術を教えていました。これは、工学分野(特に製造業)では確立済みのメソッド(手法)ですが、これが、職人の世界では、理由もなく忌避され続けていました。
そもそも、「おいしいラーメン」と、皿洗いの修行、先輩や後輩、修行期間などとの間に因果関係なんぞある訳がありません。それに、私は、おいしいラーメンが食べられるのであれば、その職人のキャリアが1週間であろうが10年であろうが、全く興味がありません。
「味を守って○○年、頑固一徹ラーメン」をウリにしながら流行っている飲食店は、「ウソをついている」のです。
なぜなら、時代や顧客に応じて、味や質の改良を試みない店が、生き残れる訳がないからです。私は、実際に、「老舗ラーメン」といわれている店が、常に顧客の声を聴き反応を見ながら、毎日のようにラーメンの研究開発に余念がないことを知っています。
「頑固一徹」と言い張っているのは、そのキャッチコピーの方が、客のウケがいいからです。
そもそも、ラーメンとは、麺、スープ、トッピング等のサブシステムで構成される「システム」です。システムである以上、システム的アプローチが適用できない訳がありません。こんな当たり前の理屈が、日本の閉じた職人の世界ではなぜ理解されないのか、私はずっと疑問でした。
このようなことは、欧州では、既に中世の時点で、「ギルド」というシステムで完成していました。
ギルドの目的は、一言で言えば、「特定の商工会議所が利益を得る為に、その構成員に限定して、できるだけ効率よく技術を伝承すること」でした。その技術の伝承方法は、考えうる最速かつ短期間で行えるものとなっており、その伝承技術自身がギルドの財産でした。
ギルドの世界でも、「皿洗い」だの「ぞうきんがけ」はあったかもしれませんが、「技術そのものを教えない」(例えば『目で見て盗め』などという)、ばかげた育成方法は存在しなかったのです。
多くの人が、
―― ラーメン職人や左官職人などの職人の技術は、デジタルサービスのように取り扱うことはできない
と、高をくくっていたのかもしれませんが、このようなラーメン教室や左官教室の成功は、全ての職人技術もデジタル的に取り扱い可能であることを証明し、「職人」が特別な存在ではなく、一般の社会人と同様に、社会システムの構成要素の一つ
―― 取り換え可能な社会の歯車
であることを、図らずも証明してしまったと思うのです。
やる気さえあれば、装置と計器でおいしいラーメンを作ることができ、その気になれば、1カ月で左官の仕事の基礎の習得を完了できる、そういう世界で、最後に残るものは何か?
どのように呼んでも構いませんが、それは、「他の人にない自分だけの才能」、それが「個性」です。
ただし、それは、これまでのように『無責任に称賛されるだけの「個性」』ではなく、『それが無ければ、社会で人並に評価されない』という残酷な世界の「個性」です。
さらに言えば、その「個性」なるものは、単に人との差異があるだけでは価値はなく、金銭的な対価とならないのであれば、何の意味も持たないという、そういう恐ろしい世界の「個性」です。
「個性」と言えば ―― 数年前に、私は娘たちの受験前に、いくつかの学校の受験説明会に出てきましたが、どこの学校の校長も同じことを言うので、ウンザリしてしまいました。
―― 個性を育てる教育だって? 笑わせるんじゃねーよ
と、心の中で毒づいていました。
そもそも、どの学校の校長も、その「個性」なるものについても、1行たりとも内容を説明できません。スペックアウトもできない「個性」を、彼らは、どうやって育てられるというのか ――
この人たちは、教育者を自称しながら、平気で論理破綻していることを言うんだなあ、と思っていました(今でも思っています)
私が学校の校長ならば、
―― 私たち教師や保護者の皆さんには理解できない子どもたちの価値観を「できるだけ壊さない」教育を目指します
と言うでしょう。
私は、学校教育の目的は、ミシェル・フーコーの言う通り「人間の個性の破壊」と「人間のスペックの画一化」で正しいと思っています。
上記の「ラーメン学校」も「左官学校」も「すし学校」も、その通りのことを実践して成果を上げています。
「個性」なるものは、この「学校卒業」の"後"、または、「学校教育」の"外"で、思う存分発揮させれば良いのです。
それでも、もし子どもたちが、学校で「個性」「個性」とうるさくいうのであれば、「黙れ小僧!」と一喝してやればいいのです。
「学校は、お前の個性なんぞに1ミリも興味はないぞ」
「そもそも、お前の個性は、お前自身が産み出したものだろうが」
「ならば、それを育てて、一生をかけて命懸けで守り続けるのは、お前だ」
「学校や大人に責任押しつけて、逃げるんじゃねえぞ」
―― と。
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