東芝のデジタルカメラ(デジカメ)開発を担っていた家電技術研究所は、NANDフラッシュメモリの開発に大きく寄与した組織でもある。1989年2月に国際会議ISSCCで東芝は、4MビットのNANDフラッシュメモリを試作した結果を発表した。研究リーダーをつとめた舛岡富士雄の回想録(参考)によると、1987年12月に国際会議IEDMでNANDフラッシュメモリセルの基本動作を発表した後、4Mビットのチップを試作して評価しようと考えたものの、所属部署である超LSI研究所からは試作の許可が降りなかった。
そこで舛岡は、デジタルカメラの記憶媒体としてのNANDフラッシュメモリの利点を家電技術研究所の所長に訴えた。所長がメモリチップ試作用マスクの費用を同研究所が支出することに同意したことで超LSI研究所は一転して支援に回る。舛岡チームの研究題目は変更が認められ、開発が一気に進んだ。1988年7月には最初の試作に成功している。
PCの記憶装置にNORフラッシュを応用する動きでは、ベンチャー企業が相次いで設立された。前回で述べたように、1988年にはフラッシュメモリ応用製品の開発企業「サンディスク(SunDisk、後にSanDiskと改名)」が、1989年にはフラッシュ搭載記憶装置の開発企業「エム・システムズ(M-Sytems)」が設立される。
また1989年には、PC用メモリカードの共通規格策定団体PCMCIA(Personal Computer Memory Card International Association)が発足する。始めは「PCMCIAカード」、後には「PCカード」と呼ばれるメモリカードのスロットは一時、ノートPCの標準仕様となった。
同年にはPCベンチャーの「サイオン(Psion Computer)」がフラッシュメモリカードを記憶媒体とするモバイルコンピュータを試作し、同じくPCベンチャーの「デジプロ(Digipro)」がインテルのNORフラッシュを搭載したPCの外部記憶用拡張ボード「Flashdisk」を開発する。Flashdiskの価格は8Mバイト品が5000ドルとかなり高い。
開発は活発化したものの、当時のフラッシュメモリ(主にNORフラッシュ)製品は「記憶容量当たりの価格が非常に高い」という大きな問題を抱えていた。原理的には製造コストは下がるものの、現実は厳しかった。当初のフラッシュメモリは量産の製造歩留まりが低く、製造コストが高止まりしていた。フラッシュメモリの量産用製造技術がある程度成熟するまで、厳しい状態は続く。
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