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創刊前の20年間(1985年〜2005年)で最も驚いたこと:「高輝度青色発光ダイオード」(後編)福田昭のデバイス通信(503) EETimes Japan 20周年記念寄稿(その4)(4/5 ページ)

» 2025年09月26日 11時30分 公開
[福田昭EE Times Japan]

InNバンドギャップの常識を覆した松岡グループ

 InNのバンドギャップはGaNよりも狭く、1980年代後半当時は1.8eV〜2.0eVと考えられていました。1.9eVは653nm(赤色)に相当します。このことから、GaInNのIn比率は40%程度が必要だと考えられていました。しかしInは40%どころか、2%も入りませんでした。GaNとInNを同時に成長させると、GaNだけが成長し、InNはほとんど成長しなかったためです。

 そんな中、松岡グループは、窒素原料を極めて大量に導入するとともにキャリアガスを従来の水素から窒素に変更することで、In比率が10%を超え、42%に達するGaInN単結晶薄膜を1989年に成長させました。

 松岡グループは、In比率が42%に達するGaInN単結晶の成長に成功するとともに、ある重要な発見をします。InNのバンドギャップが従来の常識(1989年当時)よりも、はるかに狭いことです。In比率が42%のGaInN単結晶の光学特性を調べたところ、バンドギャップが2.0eV(波長換算では620nmの赤色)になっていました。つまり、従来の常識であるInNのバンドキャップに達してしまったのです。

 そこで松岡グループがInNの単結晶を成長させて光学特性を調べたところ、バンドギャップが0.8eV付近であることが分かりました(出所:松岡、「ウルツ鉱型結晶InNのバンドギャップ・エネルギ」、『NTT物性科学基礎研究所の研究活動』、平成14(2002)年度、13巻、2003年6月、p.29)。2002年のことです。過去に考えられていた広いバンドギャップは単結晶ではなく、「多結晶」InNのものだったとされています。

 InNのバンドギャップに関する常識が覆ったことにより、GaInNのIn比率は40%ではなく、ずっと少ない、15〜20%のIn比率で青色発光が得られることが分かりました。仮に20%ですとGaInNのバンドギャップは2.75eV前後となり、バンド端発光の波長は451nm(青色)となります。

主要な窒化物半導体のバンドギャップとバンド端発光波長

 なお、ロシアとドイツ、日本、ベラルーシなどの共同研究グループが松岡グループと同時期にInN単結晶の成長に成功しており、光学測定からバンドギャップは0.9eV前後であることを発見しています(出所:Davydovほか、phys. stat. sol. (b) 229, No. 3, R1-R3 (2002) )。

日亜化学の中村グループが「明るさ100倍」の青色LEDを新聞で発表

 話題を青色発光ダイオードに戻します。1990年当時、赤崎・天野グループはGaN系青色発光ダイオードの開発で世界のトップを独走していました。

 ところが、恐ろしく強力な競争相手が日本の徳島で誕生します。日亜化学工業(本社は徳島県阿南市)の中村修二氏らの研究グループ(以降は「中村グループ」と表記)が、GaN系青色発光ダイオードの開発を手掛け、名古屋大学の赤崎・天野グループを猛烈に追撃したのです。1991年に中村グループは、高品質GaN結晶の作製に成功します。赤崎・天野グループと同様に低温たい積バッファ層技術とMOVPE技術を駆使したのですが、バッファ層の材料はGaNでした。

 その後も中村グループはp型低抵抗GaNの量産技術を1992年に論文発表するなど、怒濤のように研究成果を挙げていきました。

そして1993年11月30日(火曜日)、日本経済新聞の系列新聞である「日経産業新聞」が第1面トップで「青色LED、明るさ100倍」の横見出しと「日亜化学、窒化ガリウム使う」の縦見出しで日亜化学工業による高輝度青色LEDの開発を報じました。あらかじめ日本経済新聞社徳島支局に日亜化学工業(以降は「日亜化学」と表記)が開発情報を流し、掲載日は決めておきました(出所:小山、『青の奇跡――日亜化学はいかにして世界一になったか』、白日社、2003年5月発行、pp.131-138)。

 この新聞記事は、日本の発光デバイス関係者に大きな衝撃を与えます。発光波長(ピーク波長)は450nm、明るさ(光度)は1000mcd(従来の青色LEDは10mcd)でした。しかもすぐに(12月から)サンプル出荷を始めるという。なお、LEDの構造はAlGaN/GaInNダブルヘテロ構造であることが後に判明しました。

明るい青色に「生きていて良かった」と思うほど感動

 ここで1993年当時の筆者について語ることをご容赦ください。本コラムの前々回で述べたように、新聞社系出版社の総合エレクトロニクス技術雑誌に所属していた1987年に筆者は「高温超伝導ブーム」と関わることになります。それだけにとどまらず、高温超伝導ブームに乗って創刊された「ニューズレター」と呼ばれる24ページから32ページ程度の超伝導専門メディアに1991年3月に異動となります。超伝導専門メディアは、わずか1年半後の1992年9月末に休刊します。休刊後の1992年10月以降は、またもや元の総合エレクトロニクス技術雑誌の編集部に所属することとなりました。

 1987〜1992年までの時期、筆者は光デバイスとは距離を置いて活動していました。そのため、青色発光素子の技術開発動向に疎かったのです。青色発光素子でもZnSe系の開発成果は総合エレクトロニクス誌で記事になっていたので、わずかながらも知っていました。しかしGaN系については恥ずかしながら、まったく知らなかったのです。

 1993年11月30日付の日経産業新聞は編集部にも驚きを与えました。真っ先に動いたのは同僚のN記者です。すぐさま日亜化学に電話し、取材の約束を取り付けていました。徳島県阿南市の日亜化学を取材して中村修二氏からプレゼントされた青色LEDのサンプル基板(乾電池ホルダーと手動のスイッチが付いていて、乾電池を入れてスイッチをオンにすると発光する)をN記者は編集部に持ち帰りました。

 スイッチを入れると、これまで想像もしなかった強い明るさで青色に光りました。筆者は大学院の修士課程で発光ダイオードについて学んでいたときの経験から、「明るい青色発光は不可能」と思い込んでいました。展示会でSiCの青色LEDが動作しているのを見たときには、あまりの暗さに絶望的な気分になったものです。

 このため、GaN系LEDの「とてつもなく明るい」青色発光を見たときには、「生きていて良かった」と思うほど感動しました。後から考えると情けないことですが、「高温超伝導」という常識外れのブレークスルーを取材していた経験がまったく生きていなかったことになります。

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