そして偶然にも、AlNバッファ層を低温でたい積し、その上にGaN薄膜をMOVPE法で成長させたことが、表面が「鏡面のように平ら」で下地が見えるほど透明なサンプルを産み出しました。補足すると、サファイア基板は透明であり、AlN結晶とGaN結晶も可視光を透過するので、たい積/成長させた結晶の欠陥が少ないとサンプルは透明になります。前述の「擦りガラス(曇りガラス)」とは、結晶欠陥があまりに多すぎて可視光を通さなくなっているとともに、表面に激しい凹凸が生じているためです。
バッファ層を低温でたい積させたのは意図したものではなく、偶然の産物とされています。以下に、3つの文献を引用します。
最初の文献(2005年)です。
その日は毎日使っている薄膜成長装置の電気炉の調子が悪かった。通常の1000℃まで上がらす、850℃程度にしかならない。天野は電気炉を修理して、一刻も早く本来の実験を始めたかったのであるが、「ああそう言えば、窒化アルミニウムであれば、この温度で形成できるはずだな」……(中略)……窒化アルミニウムの薄膜をとりあえず850℃で形成した。その後、電気炉の不具合が解決したため、いつもの1000℃に昇温させ、従来と同じ方法で窒化ガリウム薄膜を付着させた
(出所:垂井編著、『世界をリードするイノベーター―電子・情報分野の日本人10人』、オーム社、2005年11月発行、pp.72-73)電気炉からサファイア基板を取り出して、天野は「あれ? 原料ガスを流し忘れたかな」と一瞬思った。なぜなら、サファイア基板は透明で何も付着しているようには見えなかったからである
(同上、pp.73-74)原料ガスを流していたことを改めて確認し、……(中略)……顕微鏡でサファイア基板を観察した。……(中略)……でクラックのない窒化ガリウム薄膜が見事に成長していた。天野はその時「やった! やったぞ」と心臓が打ち震えるような感動を抱いた
(同上、p.74)
次の文献(2014年)です。
1985年のある日,電気炉の不調で炉の温度がいつもの1000℃まで上がらず,850℃ほどで止まってしまう.まぁ,これでも実験はできると(天野氏は)考え,基板の上にまずAlN のバッファ層を形成し,その上にGaN の結晶を重ねる作業をした.実験を終え,基板を取り出すと,いつも見てきた磨りガラス状とは異なるツルツルした表面になっている.
(出所:山下、「ノーベル物理学賞への軌跡、青色LED研究開発ストーリー」、『応用物理』、第83巻、第12号、2014年、p.963)天野氏は最初,原料ガスを流し忘れたのかと思った.確認したらガスは供給されている.もしかして……と,顕微鏡で基板を観察すると,六角柱の結晶がきれいに並んでいる.「心臓が打ち震えるような感動を覚えた」と,天野氏はそのときを語っている.低温バッファ層技術がここに実を結ぶ.炉の不調というアクシデントが,幸運の女神を呼び寄せたのだ.
(出所:山下、同上)
3つ目の文献(2019年)です。
しかし高温でサファイアの上にAlN,その上にGaN と成長させても曇りガラスのような結晶しか得られなかった。
(出所:竹田、「青色発光ダイオードの実現とノーベル賞―窒化ガリウム単結晶の成長が鍵―」、『化学と教育』、68巻8号、2019年、pp.363-364)ところが,天野がAlNを成長させていたときに,装置の不調により温度が上がらなかった。その上に高温でGaNの成長を続けたところ,今までとは全く違う鏡のように平たんな表面(鏡面と言う)が得られた。偶然が味方した。天野によるとここまで1500回の失敗を繰り返していた
(出所:竹田、同上、p.364)
そして4つ目の文献(2015年)です。この文献は天野氏の著書であるにもかかわらず、「偶然」とは記述していません。2015年9月に発行された講談社ブルーバックス『天野先生の「青色LEDの世界」』(天野浩氏と福田大展氏の共著)では、低温のたい積が偶然ではなく、意図したものだと記述しており、ニュアンスが変わっています。
多少きれいではない結晶を間に挟んだほうが、ひずみを緩和できると考えたのです。実験ではあえて成長炉の温度を下げました。……(中略)……温度は500℃から600℃くらいだったと思いますが、正確な温度は覚えていません
(出所:天野、福田、『天野先生の「青色LEDの世界」』)反応管を外して基板をピンセットでつまんで取り出してみると、無色透明だったのです。……(中略)……原料を流し忘れたかなと思って原料を流す量を調節するバルブを見ると開いている。不思議に思いながら一応顕微鏡で見てみました。すると、表面はまっ平らで何も見えないんですが、端っこには六角形の結晶が見えたんです
(同上)
一方で低温バッファ層にたどり着いた時期を同書では「修士課程2年の2月ごろ」(1985年2月ごろ)と記述しており、AlNバッファ層を始めから低温でたい積させていたのではないことを伺わせています。
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