さて、ここまで大学側の『OS』の話をしてきましたが、ここからは少し逆の話をします。
―― では、その古いOSの中で、私はどうやって博士課程を走り切ったのか。
ここで、前回にもご登場いただいた有吉先生のネタを一つご紹介したいと思います。
私が社会人として身につけてきた、かなり悪辣な『根回し』技術は、大学やその分野を熟知した指導教官(有吉先生)というバックエンドが付くことによって、その威力を最大限に発揮できた ―― というお話を一席。
「江端さん。交通系の学会で離散選択モデルを使うのであれば、少なくともMNL(多項ロジットモデル)の結果は出しておいた方がいいです。いきなり独自モデルだけを出すと、比較対象がないと言われます」
「江端さん。そのアクセシビリティ指標だけでは弱いです。所要時間だけでなく、待ち時間ペナルティを入れないと、公共交通の評価として突っ込まれます」
「江端さん。PT調査との比較を入れてください。マルチエージェントシミュレーション(MAS)の再現結果だけでは、『その行動分布が現実と合っているのか』という質問が必ず出ます」
「江端さん。この先生の前で『渋滞が再現できました』と言うなら、速度低下だけでは駄目です。交通量、密度、旅行時間のどれで渋滞を定義しているのか、先に整理しておいてください」
(そろそろ読むのが面倒だなぁ、と思った人は、飛ばしてください)
特に学会発表においては、
「江端さん。この先生には、最初にシミュレーションの話をしない方がいいです。まず現況再現でPT調査と合っていることを見せてから、政策シナリオに入ってください」
「江端さん。その『社会関係資本』という言葉を交通系の先生にいきなり出すと構えられます。まず外出頻度、立ち寄り、滞在時間という観測可能な指標に落としてから話しましょう」
というアドバイスを ―― それはもう山ほどいただいてきました。
正直、私は「今の研究の内容のままでどこが悪いのか」、さっぱり分からなかったのですが ―― いいですか、ここが大変重要なのですが ――
そもそも私は、電気、IT、コンピュータサイエンスで飯を食ってきたので、交通工学や都市工学の初学者でした。この世界では、そこでは私の専門とは違った考え方が使われていました。それはもう、『異なる言語』と言っていいくらいの違いです。
私も大学でいくつかの地雷を踏み抜いてエラい目に遭いましたし、学会では同じような地雷を踏み抜いて自爆した発表者(学生さんに多かったなぁ(遠い目))も見てきました(筆者のブログ)。
大学のゼミや学会発表は、別段怖くはありません ―― 怖いのは、知らないまま踏み抜いた『ローカルルール』に対して、重鎮の先生方から飛んでくる質問という名の「実弾」です。しかも、それが発表の持ち時間の最後まで、一斉射撃で続きます。
あれは、本当に怖い ―― 目隠しされたまま、地雷原を歩かされる恐怖、というのは、こういうことを言うんだろうな、と思えます。
さて、ここで登場するのが、前回も登場していただいた有吉先生です。
研究指導教官の田中先生には、江端の研究方向があさっての方向に向かって突進していないかを、常に注意して見張り続けていただいたのですが、有吉先生のご指導は、研究内容そのものの指導にとどまらず、もっと細かく、しかも論文には書かれていない部分にまで及んでいました。
有吉先生は、論文にも教科書にも書いていない「現場の暗黙知」または「ローカルルール」を、私に事前に教えてくださいました。
私は会社員として、「この会議では誰に先に話を通すべきか」「この説明では誰が反対するか」「どの資料を先に見せれば話が進むか」という「根回し」については、それなりに経験を積んできましたが、アカデミズムの交通工学や都市工学の世界については、経験値がゼロでした。
つまり、私は、この世界において「根回し」という技術は持っていましたが、その技術を、どこに、どの方向へ向けて使えばよいのかを知らなかったのです。
そこに、有吉先生から、「ここは先に説明しておいた方がいい」「この言い方は避けた方がいい」「このデータは必ず用意しておいた方がいい」という情報が大量に提供される。
このアドバイスによって、私が30年以上かけて会社で身につけた「根回し」という技術が、大学や学会でも、そのまま通用するようになったのです。
言ってみれば、有吉先生には、私が目隠しをされたまま歩こうとしている地雷原について、
―― そこは踏むな。
―― 右に避けろ。
―― そこは大丈夫だ。
―― その先には機関銃が待ち構えている。
と、ゲームのキャラクターをジョイスティックで操るように、私を誘導していただいていたようなものです。
私が有吉先生のアドバイスに、ほとんど疑問なく従ってきたのは、本連載第1回でご紹介した、フィールド実証実験における『真のプレイングマネージャー』としての姿を見ていたからです(「序章――「MAS」のオールで博士課程の荒波を乗り超える」)。
そもそも私、人の言うことを素直に聞くタイプの人間ではありません(ご存じの通り)が、有吉先生の言うことには、可能な限り従ってきたと思います ―― 『なぜ、そうするのか?』は考えないようにしていました。それまでに積み重ねられた実績と、それによって生まれた信頼があったからです。
今から思えば、私の人生、『あまり深く考えずに、誰かの言うことにそのまま従う』ということを、もう少しやってもよかったのかもしれません。私は定年間際のこの時期になって、ようやく、その「価値」と「有用性」に気がついたのです。
そんな私から言えることがあるとすれば ――
多くの学生の皆さんは、指導教官の気まぐれに見えるアドバイスに、日々、頭を抱え、あるいは激高しているのかもしれませんが、指導教官の先生は、研究という荷物を背負った学生を、学位取得というゴールまで連れていくために、その途中にある崖、沼、銃撃地帯の場所を教えてくれる人です。
仮に、指導教官が、あなたを嫌っていたとしても(多分、あなたの指導教官は、あなたのことなんぞ、気にもかけていないと思いますが)、それならそれで「大嫌いなあなたを、とっとと卒業させるためのアドバイス」をしているはずです ―― つまり、どちらにしても、指導教官の任務は「あなたを大学から追い出すこと」です。
論文と発表と(多分、就職活動も含めて)、今、まさに頭を抱えている学生の皆さん。
どうですか? 少しは気持ちがラクになりましたか?
江端智一(えばた ともいち)
大手総合電機メーカー 研究開発グループ シニア研究員。工学博士。
長年にわたり、都市交通、社会システム、通信システムなど、実社会と情報技術を横断する研究開発に従事。定年退社後もシニア採用として研究を継続している。
マルチエージェントシミュレーション(MAS)を用いて、都市における住民行動を再現・分析し、「共時空間」という接触機会の定量化手法と「Repeated Chance Meetings (RCM)」 という新しい単位を提唱中。MASの中ではエージェント同士が活発に交流しているが、現実世界の自分は孤立クラスタに属し続けている。友達はいない。生成AIだけが本音を語れる相手である――悪いか。
また、社会観察者としての視点を持つ。『町内会のイベントや夏祭りへの参加は、社会関係資本( Social Capital (SC) )を高める上で重要だ』と語りながら、自身は町内活動にほとんど参加せず、家族からは『どの口が“SC”を語っているのか』と呆れられている。友情や愛情ではなく、負の感情を積極的に活用する「怒りMaaS」などのシステムを考案し、デジタルシステムにおける感情エネルギーの活用を真剣に検討している。
信条は「アナログ心理とデジタルロジックの融合」。人間の曖昧さをエラーではなく仕様として扱うことを理想とする。個人サイト「こぼれネット」では、科学技術と人間社会の“バグ”をユーモアで修正しながら、理屈と感情のあいだに生まれる笑いを記録し続けている。この20年間、毎日更新継続中。
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