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序章――「MAS」のオールで博士課程の荒波を乗り超えるリタイア直前エンジニアの社会人大学漂流記(1-1)(3/4 ページ)

» 2025年12月11日 11時00分 公開
[江端智一EE Times Japan]

「真のプレイイングマネージャー」との出会い

 有吉 亮先生(2020年当時、横浜国立大学 特任准教授)と出会ったのは、このY案件(横浜国立大学キャンパス実証実験)とは別に実施された、T案件(横浜市金沢区富岡西地区「とみおかーと」乗合タクシー実証実験)のときでした。

 有吉先生は、地元の町内会のエライさん方や、主導する鉄道会社とのコネを巧みにつなぎながら、プロジェクトを推進――いや、“驀進(ばくしん)”させていくタイプの方でした。私がこれまで出会ってきた大学の先生の中でも、異色のプレイングマネージャーでした。

 決定的だったのは、私が設計したデバイス(ラズパイ)の情報を、翌日にはGIS(地理情報システム)に“つないできた”ことです。――これを見た瞬間、私は「この人は本物だ」と思いました。さらに驚いたのは、必要な機材の納品やシステム変更を、期日までにきっちりまとめ上げてくる、その実行力でした。「この人こそが真のプレイングマネージャーだ」と確信しました。

 多くの自称“プレイングマネージャー”は、システムに口を出すけれど、手は出さない(正確に言えば、手を出せない。出せるだけのスキルがない)。そして多くの場合、システムに対する無知と無理解で、私たち現場の貴重な時間を浪費させます。しかし、有吉先生は違いました。「自分の手で、ちゃんと仕上げてくる」――それは本当に稀有な存在です。

 私自身も「現場でドタバタする研究員」という自負はあります。しかし、「地元の町内会」という、私にとっては“苦手”(というか“やっかいな”)存在と上手に付き合いながら実証実験を前に進めていく姿を見て、私はただただ感嘆するしかありませんでした(「デジタル時代の敬老精神 〜シニア活用の心構えとは」)。

 ご存じの方も多いと思いますが、私は昔から町内会と折り合いが悪く、「説得して回る」などという芸当はできません。だからこそ、有吉先生のその立ち回りを見て、心の底から「すごいなぁ」と思ったのでした。

 あくまで私の主観ですが、「プロジェクトを妨害する要因のトップを挙げろ」と言われたら、私は1秒以内にこう答えます。「口を出すだけの上司」と。現場でコーディングしながらはんだ付けをしている私は、「冷たい雨に打たれながら配線をする気がないなら、そこで黙って見ていろ!」――そう言いたくなる瞬間が何度もありました。

 有吉先生は、その“冷たい雨の中”で、現場に立ち、指揮を執るプレイングマネージャーでした。

 そしてこの出会いが、リタイア直前の私に、私の周囲の誰もが――いや、私自身でさえ――『江端、お前いったい何を考えているんだ?』と首をかしげるような行動を取らせることになるのです。

甘過ぎた見積もり

 話を戻します。

 私が横浜国立大学で「怒りMaaS」の実証実験(Y案件)を実行して、魂の底から反省したのは、その実験の見積もりの甘さでした。

 私の悪いクセでもありますが、私は「まず始める。それからのことは後で考える」というタイプです。このやり方で、これまでいくつものプロジェクトを乗り切ってきました。

 もっとも、こうしたアプローチは私のオリジナルではありません。

例えば――

■ リーンスタートアップ(Lean Startup):小さく始め、顧客の反応を見ながら素早く改善する手法。

■ アジャイル開発(Agile Development):「計画よりも適応」「ドキュメントよりも動くソフトウェア」を重視する開発手法。

 そして近年では、Facebook創設者のマーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)の有名な言葉―― “Move fast and break things.”(速く動いて、壊せ。)―― も、同じ発想の延長線上にあると言えるでしょう。

 で、私はこのY案件で、見事に手痛い失敗をします。

 「キャンパスでタクシーを動かせば、何かが見えてくるだろう」という私のポリシーが、完全に裏目に出ました。

 私、「大学キャンパス」という場所の特性をすっかり忘れていたのです。――つまり、“キャンパスに学生も職員もいない2月”という最悪の時期に、実証実験を計画していたのです。

 利用者がほとんどいない大学構内で、空の日産セレナを延々と走らせるという愚行。今にして思えば、うかつにも程がありました。

 さらに、横浜国立大学というキャンパスの地理的条件も、私は見落としていました。この大学は中心部に各学部棟が集まり、その周囲を道路が囲む構造です――つまり、キャンパス内の移動に交通機関を必要としない設計になっていたのです。

 要するに私は、利用者がいない時期に、利用のモチベーションが存在しない場所で、オンデマンド交通の実証実験を強行したわけです。

 その結果、日産セレナは、過疎地の定期バスと同じく「空気を運ぶ移動手段」に堕しました(もちろん、利用者ゼロというわけではありませんでしたが、予想を大きく下回りました)

 この失敗の背景には、山ほどの「怒りMaaS」シミュレーションを作りながら、事業化のメドが立たないことに焦りを感じていた私の焦りがありました。

 そしてこの経験で、私の魂にたたき込まれた教訓は、「徹底した事前調査」だけでは足りないということ。必要なのは、現実と見紛うほど精緻な、仮想的なPoC ―― 現実そのものを再現するほどの、事前シミュレーションが必要であるという確信です。

 この実証実験の失敗こそが、後に私が着手する仮想現実シミュレーション――現実世界と同数のエージェントを用いたマルチエージェントシミュレーション(Multi-Agent Simulation: MAS)、すなわち「実数MAS」の萌芽となったのです。

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