電車を日常的な移動手段にしている者にとって、疲れ果てている時、急いでいる時に発生した人身事故ほど、心が疲弊するものはありません。ですが、声を大にして人身事故を批判することはタブーである、という暗黙の了解が、なぜか存在するのです。今回から始まる新シリーズでは、この「(電車での)人身事故」について、「感情的に」ではなく「数学的に」検証したいと思います。
「世界を『数字』で回してみよう」現在のテーマは「人身事故」。日常的に電車を使っている人なら、一度は怒りを覚えたことがある……というのが本当のところではないでしょうか。今回のシリーズでは、このテーマに思い切って踏み込み、「人身事故」を冷静に分析します。⇒連載バックナンバーはこちらから
心身ともに疲れ果てて、帰宅している途中の電車の中のことでした。
退社時に電子メールで提出した資料は、今頃、上長がチェックしているはずです。私は帰宅後、自宅のPCでそれを受けとり、修正して、明日の朝に再提出しなければならない ―― そういうことが、既に数日間も続いていました。
いわゆる「修羅場」というヤツです。
『インターネットは、絶対に私を不幸にしている』と思いながら、満員の電車の中で押しつけられ、ドアの前の手すり棒にしがみついて、電車に揺られていました。
吐きそうなほど体がダルい。一秒でも早く自宅に到着して、布団に倒れ込みたい。たとえ、1時間でいいから仮眠を取りたい ―― と、考えていた時、まさにその時、突然電車が停車し、アナウンスが流れてきました。
「23時50分頃、○○駅にて、人身事故が発生しました。この為、この電車は駅のホームに入ることができないため、ここでしばらく停車致します。復旧の時間は現時点では不明です」
その瞬間、車内は、どんよりとした失意の空気が流れたのを覚えています(と、同時に、お互いに顔を見合わせてため息をつけるような、かすかな共同体意識も発生していたように思います)。
そんな中、失意でもなく、ため息でもなく、ましてや共同体意識など発生するわけもなく、ただ1人、暗く青白い炎の憎悪をたぎらせて、どす黒い邪悪なオーラを発していた人物がいました。
私です。
こんにちは。江端智一です。
今回から新シリーズ、「人身事故を「数字」で回してみよう」を始めたいと思います。
EE Times Japanの編集長のTさんとMさんのお2人にお会いして、この提案をした時、『この人、本当に、どこから、そういうネタを思い付くんだろう』という表情をされていたのを覚えています(結局O.K.を頂きましたが)。
このシリーズをやりたいという理由は3つありました。
第一は、「腹が立たないか?」を検証したいからです。
冒頭にお話した、私の激怒 ―― ではなく、今回、私が強く興味を感じることは、私が「心底腹を立てている」のに対して、私以外の人が、人身事故を「かなり寛容に受けいれている」ことです。
職場でこの手の話をすると、彼らは、いつだって、
『地震や台風の被害に対して、地震や台風を相手取って、損害賠償請求の訴訟なんて起こせないよね』
という感じの話し方をするのです。
私が「怒り」を感じるのは、「浅学、卑怯(ひきょう)、狭量」という私の性格上の問題であることは、よく分かっています。
それでも私は、『なぜ私以外の多くの人が、そのような寛容性を発揮できるのか』が、理解できないのです。
『人身事故の責任は、―― 生死を問わず ―― 人身事故を発生させた当事者にあるに決まっとろうが』
と、私なんぞは思うのですが、そのような論調で記載された文献、書籍はもちろん、無責任な言動であふれ返るネットの掲示板にさえ、それを見つけることは難しいのです。
私のように考える人は、本当に全然いないのか? あるいは思っていても黙っているのか? では、黙っているとしたら、そのメリットは何か? そもそも、人身事故の発生当事者に対して、法による処罰は不可能なのか?*)
*)現行法では、死者は刑法上の刑罰の対象にはなりません。
私は、私の「怒り」が妥当なものであるのかどうか、あるいは世間一般の人の感性と、どれだけ乖離(かいり)しているのかを、定量的に知りたいと考えています。
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