では、『苦痛の定量化/見える化』さらには『苦痛の共有化』について、現状どうなっているかを、ざっくり調べてみました。
#2のインタビュー(問診)や#4の装置(デバイス)を使う方法は、古くからの「他人の苦痛を知る手段」として一般的です。#1のツールを使う方法も、個人の主観を超えるものではありませんが、それでも数値化/離散化できる、という点においては、何もしないよりは、ずっとマシだと思います。
私としては#3の「人工の痛みを作り出すもの」が、現時点で最も有望な「苦痛の共有化」だと思いました。自分の感じている痛みと同程度の痛みを装置で作り出せれば、それを他人に体感してもらうことができるからです ―― 理屈の上では。
しかし、これは、現時点では「一般的な検査法」とはなっていないようです。これについての理由を探してみたのですが、私は見つけられませんでした。
そこで私は、2つの仮説を考えてみました。
(仮説1) この装置は痛みを数値化する目的でのみ使われており、第三者への痛みの共有としては機能を発揮できない
その装置で生成した痛みは、結局のところ、その患者本人の個体の状態(体格、年齢、性別、身体の弱り方、神経の反応等)に依存するため、結局のところ、完全に同一の痛みは共有できない
(仮説2) そもそも、他人の痛みなど共有したくない
他人の痛みをわざわざ自分の体で再現するなど、つらいに決まっている。そんなことは、やらずに済むに越したことはない
私たちは、「自分の痛み」には真剣ですが、「他人の痛み」については、本当のところ『どーでもいい』と思っているのではないでしょうか。「他人の痛みを感じられる人間になりましょう」という子ども向けのメッセージは、メッセージのままにしておくのが、誰にとってもラクです ―― その本人を除けば。
私は、あなたを責めている訳ではありません。私だってそう思うからです。毎日、他人の痛みを自分の体で検査する ―― そんな仕事は正直、ゴメンだと思います。
いずれにしても上記の私の2つの仮説は、検証方法がありませんし、これからも、仮説でとどまることになるでしょう。
それでは最後に、「苦痛は共有できない」または「私たちは、他人の苦痛を共有したくない」ことを、『認めがたい事実』として認定した上で、『「苦痛」が動かす社会の未来像』について、私からの提言という形でまとめてみたいと思います。
上記の話は、私の体験に基づいています。
例えば ―― 患者(私)の主張する苦痛に対して、処方箋を出し渋る医者がいます。私が過去に処方された経験があり、その効果があり、そしてその薬の名称まで指定しているのに、「そのクスリは効果がない」と言い張る医者がいます ―― それは1人や2人ではありませんでした。
私、本当に訳が分からないのですが、医者の中には『患者の望む通りにクスリを出したら負け』と思っている者がいるのでしょうか? 医学的な知識や理論は知りませんが、被験者に効果の認められた処方を、あれほどムキになって否定するのは ―― 『患者から指示されることは、プライドが許さない』と思っているとしか思えません。
私はエンジニアですが、自分の思い込みが間違っていたことなど日常茶飯事です。特にIT関係は、間違いがすぐに分かる ―― 「動けば正解、動かなければ不正解」 ―― という性質がありますから、自分の見解には常に謙虚になります。
医者も、疾病や傷害を治癒する技術者という意味ではエンジニアであるはずで、当然100%の正解が出せる訳ではありません。実際のところ、セカンドオピニオンが真逆の診断をしたことなど普通に結構あります(というか、私の体験では、ほとんどそうだった)。
結局、ITであれ、医療であれ、サービスを提供する側は、顧客のリクエストを最優先すべきです。しかし、医療分野においては、その姿勢が著しく欠けているのではないか思えるのです。
―― 自分のメンツにこだわるアホな医者、そして、緩和ケアを簡単に実施できない法律や制度……
本当に、本当に、本当に、ばかばかしい。「苦痛」は、私たち個人の重要で深刻な問題です。医者や法律の都合なんぞ、なんで私が考慮してやらねばならない。私の苦痛に関しては、それを一番よく知っているのは、この私です。
ただ一点、医師は、患者の生命について、常に法的リスクを負っていることは考慮してあげたいとは思います。
前述した通り、医師は矛盾した状況で判断を強いられる、割の合わない職業です。ですから、彼らのリスクを患者である私が負うように法律と制度を変えて欲しいのです。もちろん、私自身も独力で努力しなければならないこともあります。
つまるところ、私は、「望めばいつだって100%苦痛を回避できる」「望めばいつだって自分の手で人生を終えることができる」という保証があればいいのです。
そのような保証 ―― 逃げ道 ――さえあれば、私は安心して「希望とともに苦痛と闘う」ことができるのです。
少なくとも、「絶望とともに苦痛と闘わされる」というような、人生の晩節を他人に踏み躙られるような最期だけは、ご勘弁頂きたいのです。
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