さて、この「(私にとっては)さっぱり分からない量子テレポーテーション」に対して、「量子暗号」は、用途が明確で、100%役に立ち、現時点においても利用できるアプリケーションです。
そもそも、インターネットの安全は、RSA暗号というものによって担保されています。RSA暗号についての説明は割愛しますが、一言で言えば、RSA暗号は「破られることを前提とした暗号」である、ということです。
潤沢な計算能力と十分な時間があれば、かならずコンピュータで破ることができます。
ただ、現時点で「潤沢な計算能力(例:スパコンレベル)と十分な時間(例:100年間)」というものなので、破られることは心配しなくて良い、ということになっていたのです ―― 量子コンピュータが現実味を帯びてくる前までは。
現時点では、量子コンピュータの計算能力はショボイ(というか、まともな計算すらできていない)ので、心配する必要はありません。
しかし、「理論上、量子コンピュータによって、RSA暗号が無力化されること」が確定している ―― これは、人類に対する脅威であり、全ての人間のプライバシーが侵害されるディストピアの到来とも言えます*)。
*)あるいは、秘密ごとが一つもないユートピアの到来、という見方もできます。
そして、今はどんなにショボくとも、量子コンピュータは、現実にGoogleやIBM、D-Wave Systemsで動かされています。ディストピアへの第一歩は踏み出されてしまったのです。
ですから、
―― どのような量子コンピュータが出現してこようとも、絶対に破れない暗号
が必要となるのです。それが、量子暗号です。
[Tさんツッコミ!]正確に言うと、「量子暗号」とは別に、対量子コンピュータ向け暗号方式(耐量子計算機暗号)が開発されています。
今回は、この量子暗号の中でも、前回説明した「ベルの不等式」を利用する、「E91アルゴリズム」の概要について説明します。
量子もつれ状態にある量子のペアを大量に発生して、その量子を分離して別々の場所に届け、それを確定したデジタル値の列を暗号鍵として使う、というものです。
暗号鍵を構成するデジタル値(ビット)は、通信する2人のいずれかが観測することで確定します ―― 秘密鍵の内容を誰も(量子の送信者も)知らないし、誰も決定できない、という点において、従来の秘密鍵の概念からはかけ離れています。
地球と木星の中間地点で惑星として軌道している「量子もつれ発生装置」から発射された量子が、クリスまたはリンタロウのところに到着、観測された時に、0または1の値が決定し、いずれかが(上記の図では、リンタロウが)そのビット列の反転を、暗号鍵と使えば足ります。
しかし、この「E91プロトコル」は、本当に安全な秘密鍵の配送を実現しているでしょうか?ここに、悪意の第三者(レスケネン教授)を登場させて考えてみます。
まず、レスケネン教授は、空中を飛んでいる量子の軌跡を発見したとします。しかし、レスケネン教授は、量子状態である量子から、クリスまたはリンタロウのところで確定するデジタル値(0/1)を知る手段がありません。その状態にある量子は、確率50%でいずれの値にもなりえるからです。
しかし、レスケネン教授が、空中を飛んでいる量子を把握して、この状態をあえて確定してしまい、その確定後の情報を、クリスとリンタロウの両方に送ってしまえばどうでしょうか。レスケネン教授は、暗号鍵の情報を100%知っていることになるので、クリスとリンタロウの通信は、レスケネン教授には筒抜けになります。
しかし、これもできないのです。
前回の「ベルの不等式」をもう一度見てみましょう。このベルの不等式が「破れている」ことが、各種の実験で確認されたことによって、アインシュタインさんの主張が退けられ、ボーアさんの確率に基づく量子論の正しさが証明されました(「神はサイコロを振りまくっている」by江端)。
さて、この考え方を、E91プロトコルに当てはめると、こんな感じになるはずです。
つまり、クリスとリンタロウが、ベルの不等式の計算を行い(もちろん秘密鍵の情報は使わず、観測機の干渉チャネル情報を使い)、不等式が成立していれば、盗聴者(レスケネン教授)が存在したとして、その鍵を捨ててしまいます。ベルの不等式が破れることが確認できるまで(盗聴者が諦めるまで)、鍵を捨て続ければ良いのです。
かなり詳細を端折った説明になってしまいましたが、つまるところ、量子もつれを使った秘密鍵の配送は、盗聴ができず、「なりすまし」をしても、それがかならずバレてしまうということです。
実際に、人工衛星を使った、量子もつれによって生成した量子を配布して、秘密鍵を生成する実験が成功しています。
この実験は、2017年6月、中国がオーストリアと北京(Googleマップで約8000km)の2箇所に秘密鍵(800kバイト)を行ったという実験(実験衛星「墨子号」)が有名です(参考[外部サイトに移動します])が、(あまり知られていませんが)我が国においても、その一年前に、1箇所への光子の送信に成功しています(関連記事:「NICT、超小型衛星で量子通信の実証実験に成功」)。
別に人工衛星を使わなくても、光ファイバーを使った光子通信でも可能であり、現時点においても実現可能な技術となっています(RSA暗号は、まだまだ使えますので、無理して量子暗号を使う必要はないと思いますが)。
[Tさんツッコミ!]光ファイバーを使った通信は、通信距離に課題があり、数100キロ以上は中継機がないと通信できません。量子情報を扱う量子中継器は現在研究段階です。
と、ここまでで量子暗号の概要についてお話しましたが、これを調べている最中、私は、量子コンピュータは、量子暗号とセットになって、結構エゲツないマッチポンプになっていることに気が付きました。
つまり、量子コンピュータは、未来のインターネット社会の崩壊をもたらす悪魔の装置であり、しかし、その崩壊を量子暗号が救う、というストーリーです。キーワードは、いずれも「量子」です。
どうやら、量子物理/化学の中でも、特に計算や通信へのアプリケーション「量子IT」への投資(技術だけではなく、基礎教育も)を怠る国は、量子ITの先進国の食い物にされる ―― ようです。
実際、今回のコロナ禍によって、我が国が相当なIT後進国であることが、定量的に明らかにされてしまいました。そもそも、我が国が未だに「技術大国」であるなどと、真面目に信じているエンジニアは存在しませんし(もしいたら、そいつは単なるバカ)、「デジタル庁」なる省庁の創設構想で、我が国の国民のITリテラシーの低さを、国内外に公に認めたことになっています。
相変わらず、投稿掲示板の書き込みで身元が割れないと信じているバカが、連日のように逮捕されていますし、我が国の中小企業(の社長クラス)の多くが、リモートワーク環境を導入できない(SkypeやZoomのインストール程度のことすらもできない)という事実に、私は慄然(りつぜん)としています。
「量子IT」は、インターネットの仕組みが「子どものおもちゃ」に見えるくらいの、絶望的な難しさです。ですから、量子論の理解を、国民に強いることはできませんが、「量子IT」の概要と効果(このコラムで記載している程度の内容)を理解できる程度にはなっておかないと ―― 我が国は「食われる側」に転落する。
まあ、そういう未来も、私たちの選択肢の一つではあるとは思いますが ―― これまでずっと我が国が侮っていた近所の国から、「引きずり降ろされ」て、逆に「侮られる」ようになる、というプロセスは、かなり辛いものです。私たちエンジニアは、かなり以前(バブル崩壊後くらい)から、これを思い知らされ、そのツラさを骨身にしみて感じてきたのです。
閑話休題。
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